エキナカ書店のいま〜西日本新聞社の記事より〜

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    先日、何気なくニュースを見ていたら、西日本新聞社の記事が目に留まった。

    内容は、エキナカ書店での売れ筋の本の話題である。

    たとえば、新幹線を利用して出張する40〜50代のサラリーマンにいま、人気があるのがライトノベルだそうだ。

    また、長編の重いテーマの小説よりも短編小説が圧倒的に売れているそうである。

    アンソロジーの「短編工場」という文庫本は作家陣に伊坂幸太郎や宮部みゆきをかかえているということで隠れベストセラーであるらしい。また、書店の滞在時間の平均時間は5分未満で、ささっと読みやすい短編を選んで乗車というケースが多いということだ。

    また購買意欲を促すうえで、書店員自慢の「ポップ」の果たす役割は大きい。

    確かに、本屋で「ポップ」に目を通すだけで、なんとなく読んでみたいという気持ちになることが経験上少なからずある。

    書店員の腕の見せ所である。

     

    自分は仕事がら、新幹線や飛行機を利用しての出張などなどないが、夏休みなどに小旅行をするときには、文庫本数冊及び単行本は必携アイテムである。

    ただ、エキナカの書店を利用することはほとんどない。

    どちらかというと、しっかりした内容の長編小説をじっくり読む派である。

    いずれにしても本は旅のよい道連れになってくれることは間違いない。

     

     


    恐怖の語感

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      おもしろい記事を見つけた。
      東京新聞のコラム「筆洗」である。
      怪獣の名前にゴジラ、モスラ、キングギドラ、モスラ、ベムラーなどラ行が多く用いられる理由として、作家の丸谷才一がこう分析したそうである。
      「やつら」「あいつら」のように最後にらを用いることで侮蔑の意味を表す言葉が日本語にはあり、怪獣を生み出した人々の心に転じて「恐怖」への対象というイメージが広がったのではないか。
      おもしろい分析である。
      同様に火山は阿蘇、浅間、有珠のようにア行とサ行の組み合わせのものが多く存在するということである。
      これはマレー語のアサップ(煙)に関係しているのではないかという説もあるそうだ。
      つまり、どちらにも恐怖の「語感」があり、その語感が人々に恐怖のイメージを想起させるという内容であった。

      自分はオカルト映画をほとんど見ないが、今まで一番怖かったのは「エクソシスト」である。「サイコ」もだ。
      最近ではといっても古くなってしまったが「ソウ」にもはまった。
      共通項はア行とサ行とカ行のつながり。自分にとっての恐怖の「語感」である。




       

      涙のムハンマド掲載問題から

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        表現の自由か?宗教への冒涜か?
        フランスで起きた、「シュルリー・エブド」銃撃事件以降の「涙のムハンマド」の掲載問題についてである。
        日本の新聞社の対応は二つに割れた。
        問題提起として掲載した産經や日経、東京。
        テロは許すまじであるが、イスラム教信者の気持ちを考え、相手への敬意のもとに言論の自由な成り立つという朝日や毎日。
        そういう態度に一貫性がないと叱る大学教授もいるが、掲載するか否かはあくまでも非イスラム世界の議論という同志社大学の内藤教授の考えが一番心に響いた。

        ムハンマドというと聞きなれないが、私の世代は高校の世界史でイスラム教の開祖 マホメットと習った。
        調べてみて分かったことは、キリスト教はイスラム教のムハンマドに対して敵対心をもち、あの聖地エルサレム奪還を試みた十字軍の遠征にそれが顕著にあらわているということである。
        つまりキリスト教徒にしてみれば預言者はモーセやイエスで十分であり、ムハンマドなどどうでもよい軽い存在であり、もっといえば邪魔な存在という感覚でしかないのである。
        そういう根深い差別・偏見を理解した上で、この諷刺画問題をとらえてみると、イスラム教の信者にとっては、ムハンマドの涙という絵は諷刺画でもなんでもなく、自分のよってたつ考え方の源でもある存在への冒涜とみなす不愉快極まりない絵と考えたほうが自然である。そういう最低限度のイスラムに対してのリテラシーももたないなら報道は避けるべきという指摘を内藤教授はしている。賛成である。
        今までにも再三、「シャルリー・エブド」はムハンマドに対する侮蔑的な絵を掲載し続けてきた。その背景にあるキリスト教絶対主義という価値観を隠しながら。あえて、フランスではごく少数のイスラム教徒の心情を逆なでするようにである。日本ではそういう事実は決して伝えられない。そして、フランスを中心に今や9・11のテロの反動でブッシュが起こした一連の戦闘行為につながるような、いいかえれば報復行為を称賛するような雰囲気が形成されつつある。憎しみの連鎖の発動である。
        同じことを繰り返してはいけない。
        テロ行為への非難は至極当然であるが、一方で、多宗教への冒涜・偏見という問題とをきっちり分けて考える理性が試されているのではないか。私は強くそう思う。

        アメリカ発 笑いについての調査より

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          年が明けたら思ったら、あっという間に三が日が過ぎた。来週にはまたひとつ歳を重ねる。
          50歳を過ぎて、人生観が変わった。肩に力を入れて生きていた自分が過去のものである。出世などにももう興味はない。どうすれば一日一日が楽しく自分にとって充実した日々になるのかを考えるようになった。
          心の中にあったぎすぎすとした感情も減り、人前でも意識して笑顔が自然と出るようになった。
          先日、笑いについてのおもしろい新聞記事を見つけた。
          東京新聞のコラム「筆洗」である。

          ▼「笑い」についての面白い調査がある。米デポー大学の研究者が、二十〜八十代の大学卒業アルバムを集め、その写真の表情と「その後」の人生を分析した▼その結果、それほど笑っていない人の離婚率は満面の笑みの人に比べ、五倍も高かった。満面派には、長寿の傾向もあったという『卒アル写真で将来はわかる 予知の心理学』・文芸春秋)▼あくまでも米国での調査。卒アルであまり大笑いしない日本人には当てはまらぬだろうが、心から笑っている人は「より前向きに」「より幅広く社会や人とつながる」ので、順調な人生を送れる可能性が高くなると研究者はみている▼大切なのは自然に出る満面の笑み。

          満面の笑みとは言い難い現実が目の前にある。賃下げは続き、人間関係も円滑にいかぬことが正直いって多い。
          心の中でぐっと怒りをこらえて笑うこともある。
          それでも怒るよりはいいだろう。「笑門来福」の気持ちを大切にしたい。

          心地よい不協和音 稀有の音楽「春の祭典」

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            JUGEMテーマ:音楽
            その名曲の誕生は、文字通り事件であったという。ストラビンスキーのバレエ音楽「春の祭典」の初演は、今からちょうど百年前。パリの劇場で、前奏曲が流れ出すと、嘲笑が起きた▼変調と変拍子が繰り返される前衛的な音楽に、体の変調を訴える人が続出した。次第に怒号が飛び交い始め、ついには警官が駆けつける大騒ぎになった▼そんな波乱の第一歩を踏み出した「春の祭典」はいま、「地球とは、どんな星なのか」を伝える代表団の一員として宇宙の片隅を旅している▼米国が一九七七年に打ち上げた探査機ボイジャー1号には、金色のレコードが積み込まれた。世界五十五の言語によるあいさつ集には「こんにちは、お元気ですか」という日本語も録音された。音楽集には「春の祭典」のほか、モーツァルトの歌劇「魔笛」の「夜の女王のアリア」や日本の尺八曲などが、収められている▼そんな「地球の使者」ボイジャー1号が、三十六年間の航海の末、ついに太陽系を飛び出したという。現在の地球からの距離は、百八十七億キロ余。電力が尽きる二〇二〇年代まではデータを送信し続け、その後は、地球外生命体に見つけられる日を待ちつつ、無言の旅を続ける▼いつの日か、金色のレコードに針が落とされる日が来るだろうか。「春の祭典」がどこかの星で大騒ぎを引き起こす。その時を楽しみにしている。

            先日の東京新聞の「筆洗」である。

            ストラビンスキーの「春の祭典」を一言で表現するとすれば、不協和音が心地よい稀有の音楽。
            情緒的な旋律に流されない、音楽の原初的な魅力である太鼓のリズムが体を貫いていく孤高の傑作である。

            緊張感はあるが、時には無性に聴きたい音楽である。

            前衛なのではなく、ストラビンスキーにとっては原始主義といわれているように根源的なものなのだろう。

            ブーレーズ指揮の作品が世では名高いが、個人的にはマーラーの交響曲で名をはせたインバルのものが大好きである。太鼓の切れ味が最高である。

            最近はひたすらストラビンスキーである。

            クラシック音楽の効能

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              JUGEMテーマ:音楽
              八代目桂文楽の「寝床」は狂歌の引用で始まる。「まだ青い素人(しろと)浄瑠璃玄人(くろ)がって赤い顔して黄(き)な声を出す」。大店(おおだな)の旦那が己の声のひどさも省みず、下手な義太夫を店子たちに語って聴かせようとして一騒動、という噺(はなし)である。音は時に大きなストレスをまき散らす▼むろん癒やし系の音もある帝京大医学部の新見正則(にいみまさのり)准教授(54)らは、音楽の面白い効果を実験で見つけた。その研究が、人々を笑わせ考えさせる業績に贈られる「イグ・ノーベル賞」医学賞を獲得した▼マウスの腹に別のマウスの心臓を移植する。自分の心臓はそのまま動いている。移植した心臓の方は拒絶反応にあって、8日後には止まる。ところが、手術後にベルディのオペラ「椿姫」を聴かせ続けると、平均26・5日も動き続けたという▼モーツァルトを聴かせてみると、これも平均20日ほど動いていた。ただのノイズでは影響がなかったというから、名曲の力だろう。美しい調べが拒絶反応を弱めた。つまり、体内に入った異物を攻撃する免疫の作用を弱めたということらしい▼同僚記者が新見さんに聞いたところ、免疫細胞はいわば侵入者に目を光らせる警官だ。音楽によって警官の数自体は増えるのに、異物をあまり敵視しなくなる。なぜそうなるのかはまだわからないという▼「病は気から」は本当かも、と思わせる結果だ。臨床に役立つと新見さんは期待している。あれこれ想像してみる。ジャズならばどうか。義太夫でも名人のなら効くだろうか。
               
              昨日の「天声人語」である。

              非常に興味深い内容である。

              クラシック音楽の生理的な面での効能の大きさについての記事であるが、私事として実感しているのは、精神的にも大きな影響を及ぼすのではないかということである。
              私がクラシック音楽に浸るようになったきっかけはタワーレコードでの偶然の視聴である。
              ベートーヴェンのピアノ協奏曲であった。
              天啓を受けたかのような心地よい衝撃であった。
              それ以来、クラシックの虜になったのであるが、不思議なことが起こった。

              イライラすることが減り、にこやかに他人に接することが増えたのである。

              当然、笑顔でひとに接していればいらぬ衝突は避けられる。
              また、素敵な女性との出逢いも各段に増えた。

              その時にはクラシックの影響とは思っていなかったのだが、どうやらそうであるのではという思いが確信に近いものになっている。

              さらに不思議なことにクラシックの話題で気が合う女性の多くは穏やかな美しさをたたえている人が多いということである。静謐な美。

              生理的な効能に関しては理由はわからないということであるが、癒しなどという言葉を超えた、奇跡的な力がクラシック音楽には宿っているものと信じたい。

              いま、バックにはシベリウスの「悲しきワルツ」が流れている。

              北欧らしい物悲しくも美しい旋律である。

              はだしのゲン 自由閲覧制限問題

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                昨年12月に亡くなった漫画家の中沢啓治(なかざわけいじ)さんに、あるとき手紙が届いた。『はだしのゲン』を読んだ小学生の母親からだった。息子がトイレに一人で行けなくなった、と。中沢さんの書いた返事がいい▼「息子さんは、すばらしい感受性の持ち主です。ほめてやってください」。昨夏、本紙のインタビューで語った話だ。代表作で描いた原爆の悲惨さが児童に伝わったと知って、うれしくなったのだろう▼ゲンは中沢さん自身の被爆体験をもとにしているが、広島で当時、実際に目の当たりにした光景は、作品での表現よりはるかに酷(むご)いものだった。絵は子ども向けに抑えて描いたという。それでも時に「残酷すぎる」と言われたと述懐している▼この海外にも知られた名作を、子どもたちが自由に読むことができなくなった。松江市内の市立小中学校の図書館でのことである。旧日本軍がアジアの人々の首を切り落としたりする場面があり、暴力描写が過激だと市教委が判断したという▼市議会への陳情が発端らしい。ゲンが「間違った歴史認識」を子どもに植え付けるから、撤去すべしという内容だった。さすがにそこまではしなかったが、最近まで好きに触れることのできたものがなぜ突如、駄目となるのか。解せない話だ▼地獄図のような場面を見れば、だれしも恐怖を感じ、戦慄(せんりつ)を覚える。しかし、そんな経験から戦争の恐ろしさ、罪深さを思い知る。子どもの感じる力や考える力を、中沢さんのようにもっと信じてはどうか。 

                今日の「天声人語」である。

                私は憤りを感じている。
                問題が起きた松江は大学時代の4年間をすごした心のふるさとであるからだ。

                暴力描写が過激だから自由な閲覧ができないとなれば、さきの戦争で侵略行為を行った我が国の非人道的な行為そのものを知らせようとしないということと同義であり、戦争の実相を知る権利を奪うという愚挙である。

                間違った歴史認識を与えるとして本そのものの撤去を要求した側とは、南京での虐殺の事実を被害者の数が曖昧であるからなかったことにすりかえようとする、似非愛国の歴史観をもった一部の人間である。その偏った考えが正しいといえないことは自明の理である。

                中国や韓国との歴史認識の違いが外交の大きな溝となっている現在、もっと端的にいえば、アジアの人々に対して行った我が国の加害としての戦争責任が問われ続けているわけである。

                終戦から68年経過し、戦争そのものを語り継いでいく人々の高齢化による激減が問題になっているいまだからこそ、はだしのゲンのようなすぐれた原爆戦争文学を若い世代が自ら読み継いでいく風土を形成しなければならないのであろう。そんなときに、あたかもその流れに竿をさし、戦争の実相に蓋をし、都合の悪い部分は風化させていこうという松江市教委の措置に素朴な怒りをおぼえる。 

                閲覧を制限することで、逆に純粋な感受性の芽はもっと戦争や原爆にについて学びたいという方向に伸びていくものと信じる。

                事実を知ろうとする権利を制限するなど基本的人権への冒涜である。

                日本維新の会の暴言

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                  喜劇王チャールズ・チャプリンは四度、来日している。最初は戦前の一九三二年五月十四日。客船で到着した神戸から列車で移動し、東京駅では八万人のファンに囲まれた▼来日中、犬養毅首相と会談する予定は幻に終わった。昭和維新を唱える海軍士官らに首相官邸が襲撃され犬養首相が暗殺されたからだ。五・一五事件である。最初は、チャプリン歓迎会を狙う計画だった。首謀者は日米関係を悪化させて人心の動揺を誘おうと考えた、と検察官に述べている(千葉伸夫著『チャプリンが日本を走った』)▼腐敗した政党政治への不満から助命嘆願運動が起こり判決は軽かった。この恩情が四年後の二・二六事件の遠因になったとされる。軍国主義に一直線に進む転機だった▼事件から四十年後の五月十五日も、沖縄が祖国に復帰した歴史的な日だ。本土の占領が終わった後、再び捨て石にされ、二十年に及ぶ米軍の占領が続いた後だった。この島に米軍基地を押しつけている構図は今も変わっていない▼チャプリンがテロに巻き込まれていたら、日米関係や沖縄の歴史はどう変わっただろうか。そう考えてみる。五月十五日は忘れてはならない日である▼侵略戦争や従軍慰安婦問題をめぐり、熟慮したとは思えない政治家の軽い発言が相次いでいる。踏みにじられた者の痛みに対する想像力の欠落に、目を覆いたくなる。

                  数日前の「筆洗」である。

                  日本維新の会の戦争に関連する常識的とは到底思えない発言に唖然としている日々である。

                  石原慎太郎の「侵略ではない」という発言。従軍慰安婦についての西村氏及び橋下氏の発言。

                  石原氏に限っては、侵略だと歴史で位置づけることこそ自虐的というのであるから、言葉もない。

                  基本的な頭の構造は、戦時下であればいかような事態も行動も許容されるという破廉恥な考え方である。
                  従軍慰安婦の問題についていえば、生きるか死ぬかの緊張度の高い日々を送る軍人のためには性欲処理施設が必要であり、そのためには慰安婦は不可欠。その役目は、当然日本ではなく韓国の女性に担ってもらうのが妥当。
                  その背景には日清戦争以降の韓国支配にともなう、蔑視してきた差別意識が根強くある。

                  こういう意識が強い人々が中心になってつくられている政党が日本維新の会なのである。

                  朝日新聞の声の欄に、島根の精神科医の方の意見が載っていた。
                  それは従軍慰安婦の問題をいかに正当化しようとも女性に対して行った行動は、性暴力であることには変わりがないということである。

                  戦争において、一番の犠牲者は女性や老人、子どもであるという事実は本質的に変わっていない。
                  「筆洗」で述べられているところの、踏みにじられた人々である。

                  そういう歴史的な事実に目を背け、人権意識の欠片のない人間が政党を担い、お山の大将のごとく、くだらないことを言うたびに国益を損なっているという事実を噛みしめるべきである。
                   

                  橋下氏による桜宮高校体育科入試中止騒動について

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                    大阪市の桜宮高校でのバスケ部の体罰を端緒にした暴力行為は思わぬ形で、その騒動の火種が広がっている。
                    特に気になるのが橋下市長の強権的な政治手腕および批判者に対するエキセントリックな攻撃である。
                    橋下氏の口癖は「何も知らない、にせもの人権派が何を言うか。」である。
                    今日はキャスターの鳥越氏がやり玉にあがっていた。

                    私は体育科の入試を中止したのは、真剣に受験を考えていた受験生や保護者のことを考えていない正義感を暴走させた軽率な行動であると考える。
                    一番問題なのは、体罰を超えた暴力傷害を引き起こしたバスケ部の顧問の人間的資質であり、教職公務員に対しての厳罰である懲戒免職を粛々と行えばいいのだ。
                    そして、ひとつの学校に10年以上も勤務するという腐敗をうむ本質的な問題をかかえている大阪市の教育委員会のあり方を根本的に改革することが求めらているのである。

                    橋下氏の叫びがエキセントリックであればあるほど、被害者であるはずのバスケ部の生徒や保護者までがいま、加害者的なニュアンスで報じられていることに不快感を感じる。
                    自殺した生徒や家族が求めているのは、体育科の入試中止ではないだろう。
                    今回の決定で受験生や家族に不快な思いをさせたことは許されると思っているとしたら傲慢そのものである。

                    繰り返すが断罪すべきは、強ければ何でも許されるという部活動という閉塞化でおきた教師による暴力事件なのである。人事異動のない腐敗体質にした大阪市教委に責任はあるのだ。

                    橋下氏が自分の行うことがすべて正しく、批判する人間はツイートと称して、人権すれすれの切り捨てかたをしているのは極めて問題である。

                    きっと橋下氏にかかれば、こういう私もえせ人権派なのであろう。

                    しかし、声高に正義感ぶるのは、もっと偽物のような気がしている。
                    攻撃性が高まれば、独裁者の道を歩みしかない。
                    人の心は離れていくことを肝に銘じたほうがよい。
                    奢れるものは久しからずである。 

                    教職公務員の駆け込み退職問題

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                      JUGEMテーマ:日記・一般
                      <石の上にも三年>という諺(ことわざ)に対応する英語の表現は、<転がる石はこけむさず>。絶えず職業を変えるのは賢明ではない、という戒めは万国共通かもしれないが、大卒の三人に一人が入社した会社を三年以内で辞めてしまうこのご時世、どこまで説得力があるのかは定かではない▼どんな職業でも定年まで完走した充足感は、経験した人でなければ分からないと思う。家族や職場の同僚から祝福されながら、一抹のさみしさに包まれるのだろうか。遠くない未来を想像してしまう▼定年という人生の節目を静かに迎えられなかった人たちが全国にいる。 「駆け込み退職」を批判されている県職員や教員、警察官だ。条例改正による退職手当引き下げを前に退職したか、希望する人は埼玉県や愛知県など、八県で四百六十人を超えるという▼最も多かった埼玉県は、教職員の退職予定者の約一割だった。三学期が終わるまで、臨時教員を確保するなど、教育委員会は対策に追われている▼年金制度への不安や先行きの見えない老後の暮らしのために、退職金を減らしたくない気持ちは分かる。それぞれ事情があるのだから、責められない。条例の制度設計の方に問題があったのではないか▼埼玉県では、最後まで子どもたちと過ごし、仕事をまっとうしたいと考える教員が圧倒的多数だ。むしろ、そのことを誇りに思いたい。

                      今日の「筆洗」である。

                      東京新聞は好意的に今回の騒動となった教職公務員の駆け込み退職について書いているが、同職の身としては、無責任極まる行動だと思う。

                      老後の生活設計は大切である。150万円は貴重である。

                      しかし、我々は教職公務員である。公僕である。
                      将来のある子どもたちに責任ある授業や指導を行うことで、日々の生業をたてているのである。
                      しかも、一年間の大切なまとめの時期に、金だけ考えての駆け込み退職は、子どもの保護者から見れば納得がいかないのは当然であり、ふざけるなといわれても仕方のない行為である。

                      条例の制度設計の不備が一番よくないのは分かるが、私たちは他の職業とは違うのである。
                      「聖職」という言葉が使われていた時代もある。
                      駆け込み退職を平気で行った教職員はただのサラリーマン教員である。

                      教員免許というライセンスは飾りではない。プロとしての気概はないのか?
                      全く持って情けない話である。

                       

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