一昨日は「退職の日」だった。
花束ひとつない自分らしい最後の日だった。
「お疲れ様。新しい旅立ちにために」という妻の言葉だけが心に残っている。
2018年も明日で終わる。
確実に言えるのは何かが終わり、そして、何かが始まるための年であったんだと思う。
最近は全くクラシック音楽を聴いていない。
ベートーヴェンではなく竹原ピストルの直截的な言葉を希求している。
人の悪口を言って楽しんだり、人の悪口を言っている人の悪口を言って楽しんだり。
表面温度0℃、湿度0%、ただひたすらな記号の連続、応酬、雨あられ。
世界のどこの誰とでも繋がっているようで、世界のどこの誰とも繋がっていない。
収縮するも無限、膨張するも無限、輪郭が欠落した空間。
良し悪しではないけれど、
そこへ行くとヒロ、お前は拒食過食で時には極端に縮んだり、時には極端に膨張しながらも
「ここしか居場所がないんです。」なんてクソみたいなセリフを真顔で垂れ流しながらも、
「ライブハウス」というこの世で最も窮屈な空間の中で、ありとあらゆる輪郭にがんじがらめにされながらも、
しかし、正真正銘の意味合いにおいて、
世界のどこの誰とでも繋がって行こうとしてたのかも知れねーよな。
剥き出しの言葉が容赦なく心の中に突き刺さってくる。
それは決して不快ではない。
鬱病という精神疾患を再発してから、周りを見て感じた事実の中に、元気だった頃には調子よくすり寄ってきた人間が手のひらを返したかのように遠ざかって行くということがある。
それをそいつらは「被害妄想」という言葉できっと片付けるのだろう。そして、面倒臭い人間として切り捨てるのだ。
そこには、生身の人間と人間とが繋がろうという切実さというものが欠落している。
先日、テレビで平成30年間に起きた衝撃映像を流していた。
その中で、秋葉原の無差別刺傷事件を引き起こした加藤被告の生い立ちから事件当日までの再現ドラマが流されていた。
借金を菓子折りをつけて頭を下げて青森から東京まで返しにいった姿がそこにはあった。
そういう生真面目な一面を持つ人間が、ショートした電源のように火花を散らしながら暴発する。
その要因として、女性の存在がある。幼稚なほどに、携帯電話の向こう側の人間とのやりとりを全てと信じ、裏切られたと錯覚する。
彼は、そんな薄っぺらな繋がりに全人生をかけたが、向こう側の女性にとっては発信する言葉は単なる時間潰しの記号にしか過ぎなかった。
その欠落を、人を無差別に死傷することで埋めようとする。加藤が求めていたのは、生身の人間の熱を持った鮮血だ。
取り返しのつかない行為でしか、生身の人間の体感温度を感じることができないまでに人間を信じられなくなった。
彼の行為を正当化する気持ちはさらさらない。
しかし、殊更に自分を卑下し、「ブサイク」「ゴミ」という言い方で自分を表現していた彼が、携帯の向こう側に求めていた人間との繋がりは切実であったのは事実であろう。
死刑判決は妥当であると思う。判決の主文でも「身勝手で残忍」という表現が使われる。
そのことを否定はしないが、彼の心を暴発させたものとは何かを考えてみることも大切である。
自分には幸いなことに、病気を発症したことに対して理解をしてくれる人間が周囲にいたので暴発はしなかったが、決して他人事ではないと再現ドラマを見ながら感じた。人間誰しも切実な思いが断ち切られた時の絶望感がどう反転するかなど分からないのだ。
だからこそ、私はこの病気になって、人の切実な思いに寄り添いたいと強く思うようになった。