吉田拓郎「ラジオでナイト」を聴いて

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    JUGEMテーマ:日記・一般

    いまラジオをつけたら吉田拓郎の声が聞こえた。

    ニッポン放送で担当している「ラジオでナイト」である。

    来年、行われるツアーの最終曲をリスナーから応募し、そのリクエストに関して自分の意見を述べていた。

    「70年代の岡本おさみの作詞した曲にはその時代の背景が怨念のごとく宿っているので、今の時代には即していないと感じる。」

    なるほどと感じたと同時に、若かりし頃、聴きまくった拓郎を今、ほとんど聴かなくなった理由についても考えてみた。

    一言で言えば、拓郎も72歳を迎えるわけで、自分が拓郎に求めていた「激しさ」とか「情念」というものをその語りからも作る楽曲からも感じなくなったということに尽きる。

    このラジオを聞いていても、終始明るい声でまるで好々爺のような口調で語っている。

    その語り口を聞いて、一時期の体調不良の頃を思うと安堵する気持ちと、何か詰まらなくなったなあという気持ちが心の中で複雑に交錯した。

    時代の怨念というのなら、いつまでも昔の曲のセットリストのオンパレードでは仕方がないのではないか。

    現役のミュージシャンを続けていくなら、やはりポール・マッカートニーのように新譜を発表し続けることに力を注いでほしい。

    それがここ数年見られないし、そもそも楽曲の質が低下している。それはクリエイターとしては致命的なことだと思う。

    このままだと聴く機会は減り続けていくのだなあと思いながら、寂しい気持ちでラジオを消した。

     

     

     


    表面温度0℃、湿度0%の輪郭の欠落した切実感のない世界で

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      JUGEMテーマ:音楽

      一昨日は「退職の日」だった。

      花束ひとつない自分らしい最後の日だった。

      「お疲れ様。新しい旅立ちにために」という妻の言葉だけが心に残っている。

       

      2018年も明日で終わる。

      確実に言えるのは何かが終わり、そして、何かが始まるための年であったんだと思う。

       

      最近は全くクラシック音楽を聴いていない。

      ベートーヴェンではなく竹原ピストルの直截的な言葉を希求している。

       

      人の悪口を言って楽しんだり、人の悪口を言っている人の悪口を言って楽しんだり。

      表面温度0℃、湿度0%、ただひたすらな記号の連続、応酬、雨あられ。

      世界のどこの誰とでも繋がっているようで、世界のどこの誰とも繋がっていない。

      収縮するも無限、膨張するも無限、輪郭が欠落した空間。

      良し悪しではないけれど、

      そこへ行くとヒロ、お前は拒食過食で時には極端に縮んだり、時には極端に膨張しながらも

      「ここしか居場所がないんです。」なんてクソみたいなセリフを真顔で垂れ流しながらも、

      「ライブハウス」というこの世で最も窮屈な空間の中で、ありとあらゆる輪郭にがんじがらめにされながらも、

      しかし、正真正銘の意味合いにおいて、

      世界のどこの誰とでも繋がって行こうとしてたのかも知れねーよな。

       

      剥き出しの言葉が容赦なく心の中に突き刺さってくる。

      それは決して不快ではない。

       

      鬱病という精神疾患を再発してから、周りを見て感じた事実の中に、元気だった頃には調子よくすり寄ってきた人間が手のひらを返したかのように遠ざかって行くということがある。

      それをそいつらは「被害妄想」という言葉できっと片付けるのだろう。そして、面倒臭い人間として切り捨てるのだ。

      そこには、生身の人間と人間とが繋がろうという切実さというものが欠落している。

       

      先日、テレビで平成30年間に起きた衝撃映像を流していた。

      その中で、秋葉原の無差別刺傷事件を引き起こした加藤被告の生い立ちから事件当日までの再現ドラマが流されていた。

      借金を菓子折りをつけて頭を下げて青森から東京まで返しにいった姿がそこにはあった。

      そういう生真面目な一面を持つ人間が、ショートした電源のように火花を散らしながら暴発する。

      その要因として、女性の存在がある。幼稚なほどに、携帯電話の向こう側の人間とのやりとりを全てと信じ、裏切られたと錯覚する。

      彼は、そんな薄っぺらな繋がりに全人生をかけたが、向こう側の女性にとっては発信する言葉は単なる時間潰しの記号にしか過ぎなかった。

      その欠落を、人を無差別に死傷することで埋めようとする。加藤が求めていたのは、生身の人間の熱を持った鮮血だ。

      取り返しのつかない行為でしか、生身の人間の体感温度を感じることができないまでに人間を信じられなくなった。

      彼の行為を正当化する気持ちはさらさらない。

      しかし、殊更に自分を卑下し、「ブサイク」「ゴミ」という言い方で自分を表現していた彼が、携帯の向こう側に求めていた人間との繋がりは切実であったのは事実であろう。

       

      死刑判決は妥当であると思う。判決の主文でも「身勝手で残忍」という表現が使われる。

      そのことを否定はしないが、彼の心を暴発させたものとは何かを考えてみることも大切である。

       

      自分には幸いなことに、病気を発症したことに対して理解をしてくれる人間が周囲にいたので暴発はしなかったが、決して他人事ではないと再現ドラマを見ながら感じた。人間誰しも切実な思いが断ち切られた時の絶望感がどう反転するかなど分からないのだ。

      だからこそ、私はこの病気になって、人の切実な思いに寄り添いたいと強く思うようになった。


      山本周五郎の流儀

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        JUGEMテーマ:読書

        今日はほぼ昼間、図書館にいて、貪るように山本周五郎の短編集「つゆのひぬま」(新潮文庫)を読んでいた。

        併せて「周五郎流ー激情が人を変える」(NHK生活人新書)も読んだ。

        山本周五郎は悦びよりも哀しみ、苦しみの中にこそ「人間」がいるという信念をもち、負の感情に突き動かされながら「人間」が何をどうしようとしたのかこそが問われるべきであるというスタイルを貫いた。

        彼自身こう語っている。

        「文学の場合は、慶長5年の何月何日に、大阪城でどういうことがあったのか、ということではなくて、その時に道修町のある商家の丁稚が、どういう悲しい思いをしたかであって、その悲しい思いの中から、彼がどういうことを、しようとしたかということを探究するのが文学の仕事だと私は思います。」

        またこうも語っている。

        「人間の人間らしさ、人間同士の共感といったものを、満足や喜びの中よりも、貧困や病苦や失意や絶望のなかに、より強く私は感じることができる。」

        周五郎の作品に私が強く惹かれるのは、この言葉に象徴される人間の苦しみの中から這い上がろうともがくその姿に、自分の思いとがオーバーラップする瞬間があるからであろう。

        今日の短編集でもそうであった。

        「凍てのあと」の栄二にしても「つゆのひぬま」のおひろにしても、人間不信に陥りながらも、ひとかけらの人の情けや思いから希望を見出そうとする姿に心打たれるのである。

        物語の最後、「嘘をついたままでは死にたくない。」と語るおひろのこの言葉。

        どんな立場や境涯であろうとも、人間はその心の内に善なるものをもっているということを書き続けた周五郎の「らしさ」が見事に表れている場面である。やはり、作家の中で一番好きなのは、山本周五郎である。


        恥を知れ!広河隆一の性的暴力の記事を読んで

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          JUGEMテーマ:ニュース

          ショックなニュースが飛び込んできた。

          このブログ上でもその記事を紹介してきたDAYS JAPANの責任編集者であったジャーナリスト広河隆一がなんと性的暴力、セクハラ行為を複数の女性に行っていたというのである。

          今年最後の週刊文春が報じたものである。

          チェルノブイリ、福島の原発事故、中東の紛争地帯での写真報道など、常に弱い者の立場に立ち、人権擁護派という看板を背負っていたのではなかったのか。

          この件に関する本人のコメントも歯切れが悪く、その当時の女性の思いを理解できていなかったなど苦しい弁明をしているのが残念である。

          本当にガッカリした。呆れてもいる。

          自分の足元をしっかり見つめることなしに、いくら世界に目を向けて、被害者の姿をカメラに収め発信したところでそれはただの英雄気取りのスクープ狙いとなんら変わりはしない。

          それとこれとは違うとでも言うのだろうか?

          人権というものに対する考え方に疑問符を投げかけざるを得ない。

          先日、ラジオ番組で「今は権力に迎合する御用ジャーナリストばかりで、真のジャーナリストが不在である。」と語っていたことが悪い冗談のように聞こえる。

          広河隆一の仕事を支援してきた全ての人々を欺く許すべからざる行為である。

          「恥を知れ」と言いたい。


          今宵 2018年のクリスマスイブ

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            JUGEMテーマ:日記・一般

            今宵は2018年のクリスマスイブだ。

            朝からFM放送はクリスマスにちなんだ音楽を流している。

            クリスマスイブのことを思い出そうとするのだが、鮮やかな記憶がない。

            就職で横浜に来てからの数年は戸塚商店街の飲み屋に行って、マスターたちと取り留めのない話をして過ごしていた。

            ある年はスナックをハシゴをし気がついたら明け方。

            夜鳴きラーメンを食べて、タクシーで家路に。虚しさを噛み締めながら眠ったことを今思い出した。

             

            結婚をし、子供たちが幼かった頃は、クリスマスイブはまさに子供たちのためのものであり、枕元にプレゼントを置いて、起きた時の子供たちの歓声を聞くのが嬉しかった。

             

            今年は、3人家族でお寿司とフライドチキンとピザを食べ、テレビを見ながら静かに過ごした。

            そして、今、書斎で先日紹介したジョン・フォガティの歌声を聴いている。

            当たり前のように過ぎていく時間の大切さを感じている。

             

            1年は短いようで長く、長いようで短い。

            「今年は貴方にとってどんな年でしたか?」とラジオのパーソナリテイが投げかける声に思わず考えてしまった。

            体調を崩し、退職したことを考えれば、想定外でありよくないと言えるのだろうが、こうして家族とともに家で過ごせていることは当たり前のことでは決してない。そう思えるようになってきた。

            「いいか悪いか」の二元論ではなく、色々な面から捉えなくては人生は薄っぺらなものになってしまう。

            今年一番の収穫は去年に引き続き年間を通して100冊以上の本を読破したことである。

            目に見えない形で、心の中に栄養を吸収することができた。この喜びは何事にも代え難い。

            「温床でならどんな芽も育つ。氷の中ででも、芽を育てる情熱があってこそ、真実、生きがいがあるのではないか。」

            今年読んだ本の中でも特に影響を受けた一冊、山本周五郎「赤ひげ診療譚」の中の言葉である。

            胸に強く刻んでいる。


            クリスマスを前にして思うこと・・・

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              JUGEMテーマ:日記・一般

              ラジオ番組の良いところは、リスナーとの双方向性にある。

              昨日、今日と色々な局の番組を聴いていたがその思いを強くした。

              この1年を振り返って、恋愛に悩んだ人。勤め先の上司からのパワハラにより20年間勤めた大企業を退職した人。集合住宅での隣人とのトラブルで転居した人などなど。

              それぞれ、生身の切実な声として番組に投稿し、取り上げるパーソナリティも真剣にその方達に助言をしたり、思いを共有したりというやりとりに心が落ち着いた。

              それは、きっと今の自分が置かれた鬱病による休職及びあと数日後で退職という状況とがオーバーラップしているからであろう。

              ポジティブな考え方が大切なのは百も承知であるし、そうならねばという焦慮もある。

              そうは思っていても、ついネガティブに考え、思い惑うのが人間である。

              そういう人間の持つ弱さに寄り添う番組があることが救いなのである。

               

              一方、声優ブームか何か知らないが、真夜中であるにも関わらず、人気声優がアニメ声丸出しで黄色い声をあげて場違いな音楽を鳴らしている番組もある。

              特に、ここ数日は差し迫ったクリスマスムードを盛り上げようと殊更にはしゃいでいるパーソナリティには閉口した。

              クリスマスといえば、堂本剛が先程FM放送の中でこう語っていた。

              「本来、クリスマスとは世界中の子供たちがサンタさんに願いを届ける日であり、大人が馬鹿騒ぎしてどうする。」

              「子供たちの願いが星空を駆け巡るサンタさんに届くような静謐さを作ることが大人の役目ではないのか。」とも述べていた。

              全く同感であり、リスナーへの素晴らしいメッセージである。

               

              ハロウィンでの馬鹿騒ぎにしてもそうだが、多くの日本人の大人が何か勘違いをしているのだ。

              その勘違いを煽るような番組を公共性の高い電波を使って垂れ流していることに腹が立つ。

              かつてイギリスのBBCはクリスマスイブの夜、ビートルズの大傑作アルバム「アビイロード」に収録されている名曲「ゴールデンスランバー」をずっと流し続けた。日本の放送局と天と地ほどのセンスの差である。


              「3本腕の持ち主」デイブ・マッケンナのピアノソロ

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                JUGEMテーマ:音楽

                午前中、FM放送を聞いていたら、ジャズが話題に上がっていた。

                ジャズの醍醐味はアドリブの応酬にあるが、それはお互いに力量を競い合うという要素よりも、楽器を通してのコミュニケーションであり、人種を超えた普遍的なものであるという話であった。

                確かにジャズの名盤といわれるものはそうだなあと深く感じいってしまった。

                ギターの神様 ウェス・モンゴメリーの「フルハウス」などその顕著な例であろう。

                そして、何だか無性にジャズが聴きたくなった。

                そこで聴き始めたのがデイブ・マッケンナのピアノソロである。

                サックス奏者ズート・シムズの名盤中の名盤である「ダウンホーム」で軽快なピアノを演奏していた人物である。

                しかし、ウィキペディアなどで調べてみても来歴などほとんど記されていない。

                だが、活躍していた頃は「3本腕の持ち主」といわれるほどの腕前だったのである。

                まず、音色が明るいのがいい。

                そして、実に小粋なほどのスイング感が堪らない魅力である。

                今日、聴いたのは「デイブ フィンガーズ マッケンナ」であるが、知らず知らず体がウキウキしてくる佳作である。

                今宵は久しぶりに「ダウンホーム」を聴いてみようかなと思っている。


                モウリーニョ解任 引き金は対リバプール戦にあり

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                  JUGEMテーマ:スポーツ

                  マンチェスターユナイテッドの監督である名将モウリーニョが解任された。

                  その直接的な引き金となったのは現在プレミアリーグで首位を走るリバプールとの一戦である。

                  DAZNで視聴したが、3−1という点差以上に圧倒的なリバプールの攻撃力が目立った。

                  90分で放ったシュート数34は今季プレミアリーグの最多数である。

                  3分以内に一本はシュートを放っているということで、今季の好調さが伺える試合であった。

                  冗漫かつ無駄な横パスは一切なく、縦に速いパスや動きは見ていて実にワクワクする。

                  逆にマンチェスターはほとんど攻撃らしい攻撃が見られなかった。

                  ビッグゲームになればなるほど堅実な守備で勝ち点1を取るというのがスタイルであったはずだが、精彩を欠いた試合運びであった。

                  モウリーニョとの確執が取り沙汰されているポグバはずっとベンチを温めており起用されることはなく、敗因の一つとしてバイタルエリアへの決定的なパスを供給する選手がいないことが大きな原因であると感じた。

                  後半、70分過ぎから投入したスイス代表シャキリが2ゴールを挙げ、クロップの采配もズバリ的中しリバプールファンにとってみれば文句のない試合運びであった。

                  CLも苦しみながら1−0でナポリを破り決勝トーナメント進出を果たすことができ、嬉しい限りである。

                  どこまで無敗の快進撃が続くのか。楽しみは尽きない。


                  久々の外国ミステリー 「フレンチ警部最大の事件」

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                    JUGEMテーマ:読書

                    いつ以来だろう。外国のミステリーを読むのは・・・。

                    かつては大好きなジャンルであり、マイクル・コナリーやジェフリー・ディーバー、J・カーリィ、デニス・ルヘインの作品を夢中になって読んでいたものである。

                    しかし、昨年あたりから司馬遼太郎や山本周五郎などの歴史時代小説の面白さにはまり、貪るように読み続けた1年であった。

                    たまたま、書斎の模様替えを行った際に、F・W・クロフツの文庫本が目に入り、衝動的に読んでみたいと思ったのだ。

                    今、読んでいるのは「フレンチ警部最大の事件」(創元推理文庫)である。

                    世の中には名探偵や名警部ものの推理小説が山ほどあるが、クロフツが創り上げたフレンチ警部ほど地味な存在はある意味希少価値であると思う。

                    天才的なひらめきやキャラが立っているわけではない。

                    謹厳実直そのもので、事件については奥さんにも相談し、取調べでは容疑者に極めて丁寧に接することをモットーにしている。

                    まあ、それがフレンチ警部の魅力なのであるが、事件解決に向けては小さな綻びに目を向けて、丹念に丹念にもつれた糸を解くかごときの追究を行うのである。

                    私はそのスタイルが大好きなのである。

                    派手さはないが、一歩一歩解決に向けて捜査を続けるフレンチの姿に惹かれるのである。

                    最近、復刻本も発売されてはいるが、ほとんど店頭に並んでいることはない。

                    今、読んでいる本もe booksである。

                    気がついたらもう半分を読んでしまっている。事件解決に向けての後半を楽しみながら味わいたい。


                    司馬遼太郎の短編集を味わう

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                      JUGEMテーマ:読書

                      何か本が読みたくなると、司馬遼太郎か山本周五郎の作品を手に取り、読むことにしている。

                      この二人の日本文学史上の巨人が残した作品は膨大な量に上り、まだまだ未読の作品は多い。

                      最近読んだのが司馬遼太郎の短編「馬上少年過ぐ」と「軍師二人」である。

                      「馬上少年過ぐ」の表題作は伊達政宗の生涯に触れた作品であったが、それ以上にこの短編集の中で心惹きつけられたのは無名とも言える野伏上がりの小大名 脇坂安治である。

                      戦国期、豊臣秀吉の命を受け、単身近江の赤江悪右衛門を訪ね、降伏を勧告する場面。

                      内通を疑われ、汚名返上とばかりに僅か数十騎を引き連れて伊賀上野城に馳せ参じ、見事に城を奪い取る場面。

                      愚直なまでの真面目さだけが取柄の安治の姿は、滑稽なまでのひたむきさとして読者に訴えかけてくるものがある。

                      しかも、それらの武功が「貂の皮」の霊験であるという筋立ても面白かった。

                      また、「軍師二人」では「侍大将の胸毛」に登場する藤堂高虎に仕えた渡辺勘兵衛の大阪冬の陣での天晴れな武者ぶりに心踊った。

                      「戦は勝てば良いのじゃ。敵がそこにおるのに、後方の御本陣の顔色を見て遅疑する馬鹿がどこにある。」

                      これが主人に向かっての言葉なのだから、豪傑そのものだ。しかし、敵方の井伊直孝をして「あっぱれ大剛の士」とまで言わしめた勘兵衛も主人である高虎からはついぞその功を認めてはもらえなかった。

                      大阪の陣での藤堂家の功績の多くは勘兵衛の働きによるものが大きかったが、勘兵衛は禄を返上し退転した。

                      最後まで剛毅を貫いた武士であった。

                      司馬遼太郎の長編では味わうことのできない無名の武士たちの生き様に引き込まれるのである。

                      また、この短編では家康の女性観なども描かれており、性的な艶っぽい描写も多く出てくる。

                      山本周五郎との決定的な違いを見た思いがした。

                       


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