病に倒れているいま、以前から読みたくて仕方なかった本を読んでいる。
司馬遼太郎の「坂の上の雲」(文春文庫)である。
文庫本8冊に及ぶ大長編である。
だが、気づくともう7冊を読み終えようとしている。
帯の不滅の青春小説というコピーは妥当ではない。
確かに1、2くらいまでは主人公である伊予の秋山好古、真之兄弟及び正岡子規の青春の生き様を描いている。
しかし、3からは小説そのものの様相は一変する。
日清戦争から日露戦争へかけて、とりわけ日露戦争に関していえば、司馬遼太郎の情念がこもっているかのごとくの筆致である。
まるで、従軍記者のノンフィクションを読んでいるかのようなすさまじい戦いの記録である。
そこに青春などというノスタルジックな甘い感傷に浸る余地は寸分たりともない。
だが、私がひきつけられたのは3巻以降である。
司馬遼太郎の言葉を借りる。
庶民が「国家」というものに参加したのは、明治政府の成立からである。近代国家になったということが庶民の生活にじかに突き刺さってきたのは、徴兵ということであった。国民皆兵の憲法のもとに、明治以前には戦争に駆り出されることのなかった庶民が、兵士になった。近代国家というものは「近代」という言葉の幻覚によって国民に必ずしも福祉のみをあたえるものでなく、戦場での死をも強制するものであった。
憲法によって国民を兵士にし、そこからのがれる自由を認めず、戦場にあっては、いかに無能な指揮官が無謀な命令をくだそうとも、服従以外になかった。もし、命令に反すれば抗命罪という死刑をふくむ陸軍刑法が用意されていた。国家というものが、庶民に対してこれほど重くのしかかった歴史は、それ以前にはない。
が、明治の庶民にとってこのことがさほどの苦痛でなく、時にはその苦痛が甘美でさえあったのは、明治国家は日本の庶民が国家というものにはじめて参加しえた集団的感動の時代であり、いわば国家そのものが強烈な宗教的対象であったからである。
長く引用したが、この言葉がこの小説を読んでいく上での大きな鍵となる。
兵力において圧倒的な劣勢化でありながら、旅順においても、奉天においても日本の兵士が一歩も退却をせず決死の戦いに臨み、その流した血によって勝ちを得たのはそういった時代の背景がある。
それにしても日露戦争とは日本から見れば奇跡の戦いである。
陸軍の敵将、クロパトキンが机上の戦術家であり、日本軍の陽動にうろたえる脆弱な指揮官だったことが戦局に大きな影響を及ぼした。
つまり日本軍が勝ったのではなく、クロパトキンがクロパトキン自身に敗北したのである。
まだまだ記したいことがたくさんある。
圧倒的な読み応えのある小説である。ページをめくるごとに心打ち震える自分がいる。