宮沢賢治の聴いたクラシック

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    JUGEMテーマ:音楽

     

    今日は風もあり、湿度も低いので過ごしやすい夜だ。

    この夏は、ひたすら読書とクラシック音楽に親しんだ。

    子供の頃、大好きだった高校野球も全く見なくなった。高校野球だけでなくテレビ自体、夜のニュース以外見ない。

    地上波の番組はほとんど新味がなくつまらないの一言だ。

    逆にラジコでFM放送をザッピングして聴くほうがおもしろい。

    さて、小学生の夏休みの宿題ではないが、毎年自分なりにテーマを決めて何かひとつの物やことに焦点をあてて調べることをしている。

    去年は指揮者のバーンスタインであった。今年は宮沢賢治である。

    賢治の関連本も数冊読んだが一番衝撃を受けたのは「宮沢賢治の真実〜修羅を生きた詩人〜」(新潮社)である。

    銀河鉄道の夜のジョバンニとカンパネルラについての解釈は目からうろことでもいうべきものであった。

    それともう一冊、「宮沢賢治の聴いたクラシック」(小学館)である。

    宮沢賢治といえば俯き加減に大地を歩く画像が有名であるが、あの姿は著名な人物の模倣であることがこの書を通して分かった。

    それは、彼の文学的な表現活動に大きな影響を与えた作曲家である。

    それはベートーヴェンである。

    確かにベートーヴェンのカリカチュアや田園を歩く画像が残っているがよく似ている。

    それもそのはず。なけなしの給料を賢治はクラシックのレコードにつぎ込んだのは有名な話で、レコード会社のポリドールから表彰をされたくらいである。特に、交響曲第5番「運命」があったからこそ、「春と修羅」は生まれたのである。

    「宮沢賢治の聴いたクラシック」の凄さとは、その当時賢治が聴いたそのままの音源を世界初復刻というかたちで2枚組のCDにしているところである。賢治の聴いた「運命」はジョセフ・バスターナック指揮による1916年録音のビクター・コンサート管弦楽団の演奏である。

    早速聴いてみた。今の時代の演奏よりも相対的にはやいという印象である。この演奏は賢治以外にも高村幸太郎や寺田寅彦などにも大きな影響を及ぼしたものである。それが世界初復刻CD化されたのである。このことだけでも素晴らしいの一言である。

    また、弟の清六と聴いたブラームス交響曲第3番三楽章やドヴォルザークの新世界よりなど、当時の賢治の心境を探るうえでは歴史的価値のあるこの上ない音楽的資料である。


    柳橋物語・むかしも今も

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      いま、好きな作家は?と問われたら間違いなく山本周五郎と司馬遼太郎と答えるであろう。

      読書にしても音楽にしてもその時その時の心象を表すものであるけれど、この二人の作家の放つ物語の力にいま強く惹かれている。

      昨日は、戦後の山本周五郎の「下町もの」といわれるジャンルの先駆け的な作品といわれる「柳橋物語・むかしも今も」(新潮文庫)を一気に読んだ。

      「柳橋物語」のおせん、「むかしも今も」の直吉。

      ともに愚直なまでに一途に相手を思うその姿に、読者である私たちは感情を投影し、変転する運命に一喜一憂しながら、思いを共有するのである。

      そういう小説世界を、現代小説に求めるのは不可能である。また、非現実的であろう。

      そんな時代だからこそ、周五郎の描いた人と人とのつながりの温かさやまっすぐに人を思う姿に素直に感動するのである。

      「人間のすべては性善なのだ」という周五郎の心の奥底に流れている想念を感じさせてくれる。

      だから、おせんを疑わざるを得なかった庄吉も博奕にはまり身代をつぶす清次をも決して否定的な観点から突き放すことはしない。

      「赤ひげ診療譚」でも度々語られていた、愛すべき人間を不幸に陥れるのは自然と政治の暴威であり、その嵐に翻弄されながらも懸命に生きていく名もなき人間を愛情深く描くところに最大の魅力がある

       

       


      ドヴォルザーク チェロ協奏曲ロ短調に酔う

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        ドヴォルザークといえばやはり交響曲第9番「新世界より」が一番有名であろう。

        また、弦楽四重奏曲12番「アメリカ」も人気だ。

        どちらも自分の愛聴盤である。

         

        これらの作品はドヴォルザークのアメリカ時代の傑作である。

        そのアメリカ時代を締めくくる大作が「チェロ協奏曲 ロ短調」である。

        N響との初共演となったミッシャ・マイスキーの貴重な初来日盤を皮切りに幾つか聴いているのだが、やはり夭折の天才、ジャクリーヌ・デュ・プレとシカゴ交響楽団との演奏が自分の心には一番強く迫る。

        ただ、指揮のバレンボイムはいささかこじんまりとまとまりすぎていて、シカゴ交響楽団をドライブさせるほどの手綱さばきは見せていない。やはりショルティのほうが数段上手であることは否めない。

        それを差し引いてもやはりデュ・プレのチェロはある意味神懸かり的である。

        特に第2楽章は秀逸である。

        ドヴォルザークの故国チェコへの切ない思いと憧れが溢れんばかりの情感で胸に迫ってくるのだ。

        歴史的な名演といわれるだけの内容にただ感服するばかりである。

        音楽の愉悦がここにある。


        人生のバイブル 周五郎の小説

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          夏季休暇中である。

          しかし、何もしなくても時は無常に過ぎていく。

          休みは来るまでを待っている時が一番楽しいというのは真実だろう。

          さて、8月に入り、読書欲は止まらない。

          司馬遼太郎の「国盗り物語」の面白さに歓喜し、立て続けにいま山本周五郎を読んでいる。

          定番の物語の展開ではあるのだが、それでも語りのうまさに引き込まれて飽きないし、何といっても読後感のよさは絶品である。

          「艶書」「ならぬ堪忍」(新潮文庫)を読破した。

          「艶書」の中の「五月雨日記」が特に心に響いた。

           

          「どんな過ちでも、この世で取り返しのつかぬことなどない。人間はみな弱点をもっている。誰にも過失はある。幾度も過ちを犯し、幾十度も愚かな失敗をして、そのたびに少しずつ、本当に生きることを知るのだ。・・・・それが人間の持って生まれた運命なのだ。」

          これと同様の言葉が「艶書」でも出てくる。

          山本周五郎の心の底にある人間観が滲んでいる。

           

          そんな言葉を綺麗ごとだと笑う人もいるだろう。そんな言葉が通用するほど世の中甘くないよと嘯く人もいるだろう。

          しかし、自分は思う。

          人間の心の裡にある善なるものを信じる気持ちがなければ、世の中は何も変わっていかないのではないかと。

           

          苦しみや辛さや、醜さやいやらしさを経験し、そういうものに鍛えられてこそ人間は成長していくものだという周五郎の言葉が肺腑をえぐる。苦しみや辛さのフィルターを経てなお、正論や綺麗ごとを堂々と主張できる志をもちたい。そのためには己の生き方に対して相当の覚悟が必要である。

          周五郎の小説は、人生のバイブルである。


          空白の桶狭間

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            自分は未読であるが「信長の棺」でデビューした加藤廣「空白の桶狭間」(新潮社)を読んだ。

            世に名高い雨中の奇襲戦で奇跡の勝利を収めた織田信長の桶狭間の戦を秀吉の策謀という視点から描いている。

            歴史ミステリーとして考えればなるほど興味深い読み物であり、一気読了に耐える内容でもある。

            ただ、司馬遼太郎の「国盗り物語」を読んでいるなかで、この小説にふれるとあまりにも織田信長が凡庸に描かれすぎていることに大きな違和感を感じざるを得ない。

            桶狭間の戦いが秀吉の謀議による「山の民」50人による野犬を駆使しての奇襲というのはエンターテインメントとしては面白いかもしれないが、無理があるだろう。司馬遼太郎が記述した通り、2万の今川義元の軍勢がいくつかに分かれて昼食をとるにあたり、平らな窪地として田楽狭間が選ばれ、約5千といわれる義元付きの兵が集結しているという状況が妥当である。その隙を見計らって、篠付くような嵐の中奇襲を仕掛けたというほうが説得力がある。

            それでも織田軍は今川勢の約5分の1の千人という手勢であったことを考えれば、やはり奇跡の勝利といえるだろう。

            そういう難点はあるが、楽しく読めたということは加藤廣の筆力であろう。

            また、司馬作品との比較でいえば、濃姫や父である信秀と信長の関係性がほぼ真逆ともいえる解釈の上に描かれており興味深かった。

            多角的に歴史上の人物や出来事をとらえる視点を与えてくれる歴史小説はおもしろい。

             


            堪能!マーラー交響曲第7番「夜の歌」

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              先日、サントリーホールにPMFオーケストラの東京公演を聴きに行った。

              PMFとは国際オーデイションで選抜される18歳〜29歳までの国籍も様々な約100人の若手音楽家で編成するひと夏限りのオーケストラである。

              指揮者はあのショスタコービッチなどの演奏で世界に知られているワレリー・ゲルギエフ。

              演目はマーラーの7番。

              興味津々のコンサートとなった。

              マーラーの7番といえば、1908年の初演時には不評であり、その内容は破天荒、理解不能とさえ言われた。

              長調と短調を行ったり来たりする独特の不気味さを基調に時折、ハッとするような抒情をたたえたメロディが交錯する何とも形容しがたい音楽である。

              極めつけは第5楽章の金管楽器の炸裂といった感じのマーラーにしてはありえないほどの明るい響きを伴ったフィナーレである。

              4楽章までの夜の世界を払しょくする光に満ち溢れた昼の到来という言い方をされるが、一筋縄ではいかないマーラーのこと。

              実は従来のフィナーレを徹底的に皮肉り、形骸化するためのものだったという解釈もなされている。

              全体の印象としては若手の演奏家のフレッシュさが際立つ演奏であった。

               

              個人的には第7番はショルティとシカゴ交響楽団の演奏が一番好きである。

              世界一ともいわれた芸達者な演奏家をぐいぐい引っ張りドライブさせていく演奏は爽快感抜群である。

              派手な音だけ鳴らせて、感情がないなどという批判もあるが、自分はマーラーの7番といえば、今のところショルティである。

              その対極がオットークレンペラーである。

              通常75分くらいの演奏なのだが、クレンペラーは100分である。

              それでいてだれるわけではない。極端にゆったりしたテンポを維持しつつ、めりはりをつけながら悠然と進んでいく。

              巨大な彫刻物をひと彫り、ひと彫り丁寧に彫り進め完成させていくといった感じである。まさにクレンペラーにしか成しえない名人芸である。


              破格のエンターテインメント小説「国盗り物語」

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                うだるような猛暑が連日続いているが、不思議なもので体が自然に慣れてくる。

                逆に効かせすぎともいえるクーラーの冷気に体が順応していかないことがある。

                夏季休暇に入り、読書やクラシック音楽を楽しんでいるのだが、ひと気づくと「仕事」をしている自分がいる。

                同じ職場の若手には「ワーカホリック」になるなと注意しているのであるが、あまり説得力はない。

                とはいっても休みは休み。ほぼ毎日図書館に通っている。

                司馬遼太郎「国盗り物語」を堪能している。

                文庫本になおせば4冊、2100ページの長尺であるがあれよあれよという間に4冊目に突入した。

                一言でいえば、無類の面白さである。流石は司馬遼太郎。人物の描き方が抜群にうまいだけでなく、物語としての組み立てが見事である。主要人物の斎藤道三や織田信長、明智光秀だけでなく妻、側室にいたるまでその人物像が浮かび上がってくるかのような筆致がたまらない魅力である。

                「国盗り物語」は自分が中学1年生の時のNHK大河ドラマであった。その時、原作を買い求めたのであるが当時の自分にはその面白さがつかみきれず、途中で挫折した苦い思い出がある。あれから45年。

                やっとその面白さを堪能できるようになった。

                 

                司馬遼太郎は前編において「雑話」を挿入し、物語のそれ以降の展開を読者に指し示している。

                「この物語は、かいこがまゆをつくってやがて蛾になってゆくように庄九郎が斎藤道三になっていく物語であるが、斎藤道三一代では国盗りという大仕事は終わらない。道三の主題と方法は、ふたりの『弟子』に引き継がれる。」

                二人の弟子とは、娘 濃姫の婿となった織田信長。もう一方は妻 小見の方の甥である明智光秀。

                そして、弟子二人は主従の関係になり、やがて本能寺で相搏つことになる。

                それは歴史の必然なのか、皮肉なのか?

                ともあれ中世的な価値観の簒奪者なりえた信長となりえなかった光秀は、全てにわたって対比的な人生を送ってきた。

                その両者の心理的な溝が深まっていく過程の描き方は歴史好きにはたまらない魅力をもって胸に迫るものがある。

                司馬遼太郎、破格のエンタテインメント小説である。


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