ジンクスは本当に当たるもので「2月は鬼門」の通り、体調を崩している。
今までにも、何度かかかったことのある溶連菌感染症である。
子どもがかかることが多いのだが、勿論感染症なので出席停止扱いとなる。
大人であっても同じであり、はしかなどと同様に大人のほうが症状は重い。
当然、安静にしてるのだが、少しでも気分がよいと読書をしている。
司馬遼太郎の「関ケ原」も中を読み終え、その勢いのまま下も残りわずかとなってしまった。
格別な面白さである。
西軍大将の石田三成は義の人であるということは以前にも記したが、あまりにも観念に立ちすぎるので、戦における現実的なものの見方ができない。また、人の心の機微を情で考えるということができない性格ゆえに、西軍をまとめきることができなかった。
そういう意味においては「負けるべくして負けた」ともいえる。
しかし、そんな戦いの中にあって、側近である戦術指揮官 島左近の生き様は見事の一言である。
負けを覚悟した時、三成を落ち延びさせることに専心する姿は。まさに男が惚れる男ともいってよいだろう。
また。西軍の中にあっての大谷刑部少輔吉継の働きにも感動した。
小早川秀秋の裏切りの報せを受けた吉継は、眼前の東軍の敵である藤堂、京極勢を捨ておき、山から駆け下りてくる小早川の大群に対峙し、猛攻撃を仕掛けたのである。
「やれ、金吾なる者は、千載の醜名を残したぞ。裏切り者を崩せ。突けや。雑兵雑輩には目もくるるべからず。いちずに金吾が旗をめがけよや、金吾を討て、金吾を地獄におとすのに牛頭馬頭邏卒の手をば借りるべからず、汝らが地獄の邏卒のさきがけをせよ。」
鬼神のごとくの吉継の姿は、士気を高めるには十分すぎるほども気迫をもったものであり、関ケ原の戦いにおける東西の武士の中で「名将」という名に恥じないのは吉継こそとまで、司馬遼太郎は記している。
その吉継も戦いのなかで自害を決意し、首を介錯させるのであるが、その際「わが首を、敵に渡すな。」と申し付ける。
介錯の任を預かった近習の湯浅五助が、その首を穴に埋めた際に、東軍のかつての友である藤堂仁右衛門と逢う。
かつての友とはいえ槍を交え、五助は落命するのであるが、今際の約束があった。
埋めた吉継の首の件を絶対に漏らしてくれぬなという約束である。
策謀、寝返り、裏切りが当たり前の時代。子であれ、妻であれ、親であれ、自分の利のためなら殺すことも厭わなかった時代。
関ケ原の戦場において、生まれた約束。
それが命を賭けて、守られるというのもこの時代の奇跡のひとつであろう。