立て続けに司馬遼太郎の作品を読んでいる。
長編を主に、短編を問わずである。
いま、 「世に棲む日々」を読んでいるのであるが、主人公は松下村塾の吉田松陰と弟子の高杉晋作である。
「実行の中にのみ学問がある。行動しなければ学問ではない。」という思想こそ、吉田松陰を支えたものであり、陽明学といわれるものである。
弟子の高杉晋作は行動を欲するがために行動をしているという典型的な人物であり、佐幕保守的な藩の体制に対して反旗を翻し、数十人という手勢で立ち向かい、最終的には奇跡的な「革命」を成し遂げるにいたるその行動は、まさに雷電と語られるにふさわしい天衣無縫ともいえる活躍振りである。
読んでいて、血がさわいでくるほどの冒険活劇という趣を醸し出している。
そして、その革命が成功するや、「俺はその日から消えて、洋行でもする。」ときっぱり言い切るのであるから、まさに行動のために生きているという表現がぴったりである。
陽明学といえば、大塩平八郎、大村益次郎、河井継之介、西郷隆盛の名前が浮かぶ。
最終的には非業の死を遂げるという運命を背負っている。
陽明学的体質をもった人間と言い換えてもいいだろう。
正義のために抗しがたきものに抗し、その身を粉砕するという劇的な人間性を有した巨人である。
そして、その系列に準じようとした人物に乃木希典がいる。
「殉死」を読んだのであるが、彼の劇的な人間性は、常に形式的な演出を帯びたものに傾倒していく。
日露戦争の最大の攻防戦ともいわれた203高地での死闘。
司馬遼太郎は徹底して、乃木の軍師としての無能さを批判している。
そうであっても、彼の詩的情景の役者ぶりが世界的な評価を受けたのはあの有名なロシアのステッセル将軍と共に映った水師営の会見の模様である。
この映像ひとつで、彼の旅順攻略戦の責任問題は消し飛んでしまったと司馬は語る。
ただ乃木に対する司馬遼太郎の激越ともいえる酷評は「司馬史観」の誤った例として批判もされた。
いずれにしても、多面的に人物像をとらえなおすきっかけを与えてくれたという点では、なかなか面白い作品である。
それにしても、司馬遼太郎の描く幕末から明治にかけての物語の面白さは格別である。
本当に面白い。長編であってもぐんぐん読み進めてしまう自分がいる。
改めて小説の面白さを堪能している日々である。幸せな時間が過ぎていく。