明暗 夏目漱石の未完の到達点

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    今、自分の周りに「面白い本を読んだことがない。」という人がいたら、こう教えてあげたい。

    夏目漱石「明暗」を読んでみてくださいと。

    漱石の未完の大長編である。

    執筆中に倒れ、亡くなったのは有名な話である。

    文庫本700ページのボリュームであるが、全く飽きさせない。

    主人公の津田とお延との夫婦関係を軸に、彼らを取り囲む吉川夫人、友人である小林、妹のお秀など一癖もある人間同士の思惑が絡みあいながら物語は進行していく。

    微妙で危うい夫婦関係という点では「行人」でも「道草」でも描かれており漱石自身の夫婦関係が投影されているとも言われるが、「明暗」での津田とお延の関係は、お互いの腹のなかを探り合うという点において、ヒリヒリするような緊張感に貫かれており、文章から目を離すことができない。

    終盤登場する、津田のかつての恋人である「清子」の登場するあたりから、その緊張感は加速していく。清子が津田のもとを突然去った理由が明かされぬまま絶筆となってしまうのだが、続きを読んでみたいという強い想いに駆られる。そして、思う。これから本当の物語が始まるのだと。

     

    それほどまでに面白い心理劇である。

     

    「お延と清子」「どっちがいいか比べてごらんなさい。」

    男にとって昔の女は別名保存という名の美化されるべき永遠の女性といわれるが、まさに津田の心の中に巣食うもやもやとした思いの根源はこの一点に行き着くのである。

    そういう意味では、この小説は現代においても当てはまる、ある意味普遍的な魅力をもっているといっても過言ではない。

     

    西洋的な近代文学を構築しようとした漱石の集大成的な大傑作である。


    サッカーW杯最終予選タイ戦から見えたWBCとの差

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      JUGEMテーマ:スポーツ

       

      久々にリアルタイムでサッカー ワールドカップ最終予選のタイ戦をテレビで見た。

      得点だけ見れば4−0の完勝で今後に影響する得失点差を考慮すれば文句のない結果である。

      ただ、あまりにも試合内容が酷すぎた。

      ラジオで解説を務めていた元 日本代表FWの鈴木隆行氏も語っていたが、簡単に決定的なカウンタ―攻撃を受けすぎである。

      サウジアラビアやオーストラリア戦では通用しないであろう。

      まずはパスの精度が低いこと、ボランチが守備に徹しすぎていて攻撃のポイントの起点に全くなっていないこと。

      特に出来が悪かったのがバックの森重である。

      イージーなミスが多すぎる。失点につながりかねないミスを連発していた。

      素人の自分が見ていて思うのだから、サッカー経験者は腹が立っているのではないだろうか。

      UAE戦で活躍した今野や大迫がけがで欠場というマイナス面はあるだろうが、逆に言えば、自分を最大にアピールするチャンスではないか。しかも、自分のホームグラウンドの埼玉スタジアムである。

      プロ意識が低いといわざるを得ないし、自分の役割の大きさを自覚できていない。

      DFの定位置を占めているという自惚れがあるのではないか。

      そんな選手が一人でもいれば、最終予選は突破できないと思う。

       

      さきのWBCで見せた日本の野球の選手たちのひたむきさな気迫があまり感じられないのはなぜだろう?

      結局、日本のサッカーが野球のようにオリジナルスタイルとして確立していないからだと思う。

      その要因がいつまでたってもヨーロッパ中心の監督にチームをゆだねていることが挙げられると思う。

      結局借り物のサッカーなのである。テクニックはあっても、最後の球際とか、ぎりぎりの足元を通す精度が足りない。

      それは試合中の緊張感ではないかと思う。

      特に、WBCではヒット性のあたりにくらいついた広島の菊池選手のようなプレイを見た後だけに苛立ちを強く感じた90分間であった。


      きみの町で

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        JUGEMテーマ:読書

         

        重松清「きみの町で」(朝日出版社)を読んだ。

        この本の軸になっているのは「子ども哲学」シリーズ全7巻の付録として掲載されたものである。

        だが、付録と侮るなかれ、哲学の専門書を読んだことのない自分がこんなことを書くのはいささか僭越かもしれないが、おそらく難しい言葉が出てくる哲学書よりも、重松清の文章の方が深く心の芯に響くと信じている。

        それは、彼が以前「寄り道パンセシリーズ」で記した「みんなのなやみ」と通底しているものがあるからだ。

        「みんなのなやみ」は哲学書ではない。しかし、悩みをかかえている中高生をはじめとする若者に対して、真摯に同じ人間として向き合いながらこたえを見つけ、返していく重松清の姿勢にとても共感したことを覚えている。

        哲学とはなにかという問いに対して、自分なりの答えを見つけたいと思いながら書いたという重松清。

        「不自由とは何か」という章の最期に明確に示されている。

        「哲学とは、生きることを好きになるためのヒントである。」

        だからこそ、「みんなのなやみ」と「きみの町で」で綴られている重松清の思いの源流は同じなのである。

        私は強くそう感じた。

         

         おまえは死を選んで、おまえを苦しめていたものから解放されて、永遠の「自由」を手に入れたのか?でも、それは、すごく悲しい「自由」なんじゃないか?

        俺は、まだしばらくー少なくともこの子が大人になるまでは、こっちにいるよ。こっちの世界には嫌な「不自由」もたくさんあるけど、気持ちいい「不自由」だっていくつもあるんだ。そんな「不自由」を楽しんで味わって、生きていける「自由」が、俺にはあるから。


        ブロムシュタットの指揮

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          JUGEMテーマ:音楽

           

          先ほどのブログとの関連であるが、ベートーヴェンの命日ということで、いま「運命」を聴いている。

          ベートーヴェン交響曲全集の中の一枚である。

          交響曲全集は数種類持っているが、今日、選んだのはヘルベルト・ブロムシュタット指揮のものである。

          シュターツカペレ・ドレスデンとの録音である。

          思えば、ベートーヴェンの全集を初めて買ったのがこの録音盤である。

          ブロムシュタットは大好きな指揮者の一人である。

          クレンペラーほどの堅牢さはないにしろ、骨格のしっかりした安定した指揮ぶりでオーケストラを牽引する力は格別である。

          無駄を削ぎ落した、クリアでありながらシャープに切れ込んでくる演奏が心地よい。

          日本とも馴染みが深く、N響の桂冠名誉指揮者の称号を受容されたのも記憶に新しい。

          アメリカ生まれのスウェーデン指揮者ということもあり、北欧の作曲家のレパートリーも積極的に取り入れている。

          世評が高いのはサンフランシスコ交響楽団を指揮したニールセン全集である。

          特に第4番「不滅」のティンパニの扱いは凄いの一言に尽きる。

          「不滅」の代表作という評価を不動のものにしている名演である。


          3月26日 楽聖 ベートーヴェンの命日

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            JUGEMテーマ:音楽

             

            今日、3月26日はルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの命日である。

            一年に数回、まさに熱病にかかるかの如く、無性にベートーヴェンを聴きたくなる時があるのであるが、今がまさにその時である。

             

            毎日、飲んだくれている父と病気がちな母をかかえ、少年時代から一家を支えなければならなかった彼。

            演奏家、作曲家としてまさにこれからという時期に発症した耳の病。

            それを根治するために飲んでいた薬のために侵された病気。彼の残された髪の毛から分かるのは、それは薬でも何でもなくもはや体を蝕む毒であったことが証明されている。

            毎日襲う激しい頭痛と腹痛。

            また、愛する女性とは結ばれず、常にお金のことでも悩まされていた。

            彼の肖像画に見られる厳しい表情はあらゆる苦悩や苦痛を表したものではないかと思う。

            肺炎と腸カタルで倒れ、危篤状態の彼に届けられた出版社の一人から届けられた「葡萄酒」。

            「残念だね。もう遅いよ。」

            ベートーヴェンの最期の言葉となった。

             

            苦闘の人生に中でつくりだした不滅の音楽たち。

            たとえば、交響曲5番「運命」。圧巻は第3楽章から第4楽章。

            ハ短調からハ長調へと駆け抜けていく快感。高揚感。

            音楽の至福が凝縮されている。

             

            病気に苦しんでいる私に一筋の光を与えてくれた音楽がここにある。

             

             


            行人 

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              夏目漱石「行人」を一気呵成に読んだ。

              470ページに及ぶ長尺な小説である。

              実におもしろかった。

              「一郎」という主人公は、漱石が描いた登場人物の中でも際立っている。

              その際立ち方とは、最も精神的に危うい人間であるということである。

              頭脳は明晰ではあるが、何事にも理が立ち過ぎるので、猜疑心が強く完璧を求めることの理想とそうでない現実の相克に心の中で打ち震え、身動きがとれない状況で日々を生きている。

              とりわけ、心に抱く結婚観は絶望的に暗い。

              「どんな人のところに行こうと、嫁に行けば、女は夫のために邪になるのだ。そういう僕が既に僕の妻をどのくらい悪くしたか分からない。幸福は嫁に行って天真を損なわれた女からは要求できるもんじゃないよ。」

              この言葉に表れているように、家族に中でもとりわけ、妻である「直」に対しては心を許すことはなく、情が交わることはない。

              時にはひどい暴力も振るう。

              そして、一郎の精神的な危うさが端的に表れているのが、妻の貞節を確かめるために弟の二郎に、「二人で一晩宿泊して来いと依頼する場面」である。ここまでくるとサイコパス的な色彩も帯びてくる。

              そして、期せずして嵐の番に和歌山のおんぼろ旅館に宿泊せざるを得ない状況が生まれるのであるが、この場面などはその描写に緊張感がみなぎると同時に、妻である「直」のひとつひとつの二郎に対する言動が妙になまめましく響いてくるという、得もいわれぬ小説としての魅力を放っている。サスペンスフルでありながらも甘美。そして、「何か、とんでもないことが起きるのではないか?」という刺激。流石は漱石である。

              しかし、何も起こらない。起こらないのだが、起きたかの如くその話には決して誰もふれることができないという心理劇がその後も続く・・・

              いよいよ終盤。家族から見て明らかに精神に変調を来たしたと思われる一郎を旅に連れ出すのが同僚のHである。Hの役割はさしずめ精神カウンセラーである。物語は一郎の唯一の理解者であるHの手紙で終わる。

              「あなたがたは兄さんがはたの者を不愉快にするといって、気の毒な兄さんに多少、非難の意味を持たせているようですが、自分が幸福でないものに、他を幸福にする力などあるはずがありません。雲で包まれている太陽に、なぜ暖かい光を与えないかと迫るのは迫る方が無理でしょう。」

              「行人」は煎じ詰めれば狂気の話である。それは、一郎のみならず、結婚を反故にされ盲目になった女や二郎の友人の三沢に迫る悲惨な結婚生活を経験し精神を病んだ女性の話を含めてである。この物語の大きな軸になっている。

              物語の全体像は暗く不気味である。だが、幽かな救いににた余韻が漂うのは、最後のHのようにその狂気の根源を理解しようという人の姿が描かれているからであろう。

              個人的には漱石の作品の中では一番好きである。


              WALK THE MOON

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                JUGEMテーマ:音楽

                 

                たまたまi TUNESを試聴していたら、何やら80年代風のロックを彷彿させるパワーポップを見つけた。

                アメリカのバンド WALK THE MOONである。

                バンド名の由来はポリスの名曲「Walking on the moon」である。

                日本での認知はいまいちだが、本国ではベスト10にランクするヒット曲もあり、注目株であるようだ。

                基本的にアッパーチューンが多く、乗りがよい。

                春先にはうってつけの楽曲が多い。

                早速、LINEのホームナンバーに「SIDE KICK」を選んだ。

                懐かしさと新しさが奇妙に混ざり合ったナンバーが心地よい。


                彼岸過迄 漱石の信念をかけた作品

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                  夏目漱石の後期三部作の幕開けといわれるのが「彼岸過迄」である。

                  名作「門」を記してから1年半の年月が流れた。

                  その間に漱石は瀕死の大病を患い、娘を失い、漱石を朝日新聞社に引っ張った朋友が去ったことを受けての辞表提出など。

                  彼の人生を大きく揺るがす事件が続いたのである。

                  それゆえか、序文にしたためられた再出発にあたっての漱石の思いは、ストレートに心に響くものがある。

                  「ただ、自分は自分であるという信念をもっている。そうして、自分が自分である以上は、自然派でなかろうが、象徴派でなかろうが、乃至ネオのつく浪漫派でなかろうが全く構わないつもりである。」

                  「自分はすべて文壇に濫用される空疎な流行語を借りて自分の作物の商標としたくない。ただ自分らしいものが書きたいだけである。」

                   

                  そう言う信念のもと記した作品が面白くないわけがない。

                   

                  この作品の特徴は敬太郎という人物の見聞きした一筋縄で結えない登場人物の心の内面を照らした写生文である。

                  大きな軸はお互いに惹かれ合あいながら、決してひとつにならない須永市蔵と千代子の心情のずれである。

                  そして、市蔵の心に影を差す事実が語られるのは、最終盤の叔父である「松本の話」のなかである。

                  「市蔵の太陽は、彼の生まれた日から既に曇っていた。」

                   

                  「門」でもそうだが、なぜそうなのか? 何が一体あったのか? そこに至る理由が語られるまでの読者を惹きつける筆の磁力に恐れ入るばかりだ。ゆえに、漱石は時代を越えて色褪せない作家なのであろう。

                  しかも、その理由を語る文章が「市蔵の太陽は、彼の生まれた日から既に曇っていた。」である。

                  巧すぎる。

                  「彼岸過迄」。不思議な余韻が残る作品である。私は好きだ。


                  「ティンパニ・バトル」 ニールセンの交響曲4番「不滅」

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                    JUGEMテーマ:音楽

                    デンマークの国民的作曲家であるニールセンの交響曲全集を購入した。

                    指揮は飛ぶ鳥を落とす勢いのあるパーヴィ・ヤルヴィである。

                    一番有名なのが俗に「ティンパニ・バトル」ともいわれる第4番「不滅」である。

                    個人的にも一番好きである。

                    親しみやすいメロディもそうであるが、やはりコーダの左右のティンパニの掛け合いは爽快ですらある。

                    第5番での小太鼓の扱いもそうだが、ニールセンの打楽器への思い入れの強さを感じる。

                    交響曲全集を買って気づいたのだが、1番・2番もなかなか捨てがたい魅力がある。

                    1番などは調性もはっきりしており、古典的な作風ではあるが「交響曲を書こう」というニールセンの新鮮な思いが伝わってくる。

                    決して派手さはないが、魅力的な作曲家である。


                    我が人生における一冊 破戒

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                      「破戒」を読み終えて数日経ったのだが、その余韻は心の中に残っている。

                      今は、必ず鞄の中に入れて持ち歩いている。

                       

                      丑松が「穢多」であることを自ら告白することを決意する場面。

                       

                      「思えば、今までの生涯は偽りの生涯であった。自分で自分を欺いていた。ああー何を思い。何を煩う。「我は穢多なり」と男らしく社会に告白するがよいではないか。こう蓮太郎の死が丑松に教えたのである。」

                      「どうせ最早、今までの自分は死んだものだ。恋も捨てた、名も捨てた。−ああ多くの青年が寝食を忘れるほどにあこがれている現世の歓楽、それも穢多の身には何の用があろう。」

                      いよいよ明日は学校へ行って告白しよう。

                       

                      何度読んでも心が打ちふるえる。

                       

                      そして、アメリカのテキサスに旅立つ前に明かされる志保子の丑松への思い。

                      離別の最後のシーン。

                      それらが相まって深い感動が静かに降り積もる雪のように心の中に堆積していく。

                       

                      「破戒」

                      我が人生における一冊となる本である。


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