7月に入って初めての投稿である。
先月も月に3回しか投稿できなかった。このブログも風前の灯状態である。
決して読書していないわけではなく、むしろここ最近ではコンスタントに読書量は重ねているのであるが、なかなか自分の思いを発信するまでにはいたならいという心境である。
いま、一人の作家にはまっている。
西村賢太である。「苦役列車」で芥川賞をとり、その経歴や風貌から一躍注目を集めた作家である。
作品の帯には、平成無頼派、破滅的私小説などという言葉が躍っている。
私小説などというと、ここ数年は手にしてこなかったジャンルではある。
振り返っても、志賀直哉の「城の崎にて」、太宰治の「人間失格」。村上龍の「限りなく透明に近いブルー」もその範疇であろうか。
いずれにしても、あまり手にしない本の種類であることには相違なかった。
ふと、図書館で手にした本にはまってしまった。 「棺に跨る」である。
家庭の居室という実に狭い世界観の中での、北町貫太と初の同棲に至った秋恵なる女性との、小さな諍いに端を発する、貫太のとめどないDVと暴言の奔流とその後の慚愧の念にたえない後悔の心理的描写が毎度の設定である。
こう文章にしてしまえば、実に陳腐な小説かと思う方も多いかもしれないが、不思議なことにその貫太と秋恵の物語は読者を惹きつけてやまない麻薬的な力をもっている。
貫太の姿に己を実像を見てしまう自分がいる。
愛しい女にしか虚勢を張れない不器用極まりない姿やいつまでも愛惜をひきずりながら後悔の念にさいなまれる姿にである。
貫太は言い訳無用の最低な男ではあろうが、卑劣や狡猾とは無縁の生き方が下手くそな男である。
愚かさがむき出しになっている、言い方を変えれば愛すべき男だ。
立て続けに「苦役列車」「痴者の食卓」「廃疾かかえて」「寒灯」と読む耽ってしまった。
個人的には「寒灯」「青痣」「腐泥の果実」が好きである。
ある文芸評論家が西村賢太の作風についてこう語っている。
「私小説の世界に、戯作の爆発力を潜ませる。」この一文に尽きる。