期待の女性アーティスト アレシア・カラ

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    そういえば、ここ何十年と洋楽において自分のお気に入りの女性アーティストという存在が皆無であった。
    アルバムを求めて聴いたという記憶がない。
    シンディ・ローパーまで遡らなければならない。
    そんな中、今日たまたまタワレコで試聴していて、「これはいいぞ!」というアーティストに出逢った。
    テイラー・スウィフトお墨付きのカナダの19歳のR&Bシンガー アレシア・カラである。
    輸入盤ゆえ、歌詞も分からないのであるが痺れる楽曲が多い。センスが光っている。
    キュートな声で、ミドルテンポのどこか懐かしさすら感じさせるソウルフレイバーが堪らなく胸に迫る。
    「OUTLOWS」「I,M YOURS」「SCARS TO YOUR BEAUTIFUL」。
    どれもいい。
    自分自身 久々に注目の女性アーティストの登場である。
    ブレイクの予感。大いに期待したい。

    KEEP THE FAITH

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      JUGEMテーマ:日記・一般
      昨日は高校時代の友人から久しぶりに連絡があり、横浜で飲んだ。
      高1の時に出逢ってから既に39年の年月が流れた。
      昨年のミニ同窓会で逢ったときに、長年勤めたNTTをやめるという話を聞いたが詳しいいきさつについては聞けずじまいで別れた。
      そこで、昨日聞いてみた。
      「芯をもって、働いている人間が少ない。嫌気がさした。」
      この言葉が鮮烈に響いた。
      翻って自分の職場にあてはめてみる。なるほど、器用に仕事はこなすが、一日の授業に命をかけて、身を削ってまで創造するという気概をもっているという人間は皆無である。管理職や保護者の目を恐れ、自分の信念というものをはじめからもたない者も多い。プロ意識が低く、放課後には連れだってコンビニに馳せ参じ、お菓子を買い込んで職員室で駄弁に興じている。

      戦後70年の節目の年であり、集団的自衛権行使の戦争法案が可決された歴史的な年でもあるにもかかわらず、話題にものぼらない。
      古代の歴史に授業時間を割くあまり、近現代史は時間がないことを言い訳にしておざなりに教科書を読んでおしまい。そういう人間が教育者として一体何を子どもに語れるというのか?


      「KEEP THE  FAITH」

      信念を貫け。信念を守り通せ。この言葉はボン・ジョビの6作目のアルバムタイトルである。
      ボン・ジョビが天文学的な成功という栄光をつかんだあとで17か月にも及ぶ長期ツアー(ニュージャージーツアー)で身も心に灰になるほど燃え尽き、バンドとしての絆が断ち切れそうになった時期がある。解散は避けられのではないかという噂が流れる。
      しかし、その苦境を乗り越えるきっかけとなったのは早すぎるといわれた1990年の大晦日の東京ドーム公演である。
      結局、その後再び10か月という空白の危機を迎えるのであるが、この公演で感じたステージのショーを心から楽しむという気持ちが再びの復活につながった。その時出てきた言葉が「KEEP THE FAITH」なのである。
      そして、この言葉がそのまま復活アルバムのタイトルにもなる。
      正直、ボン・ジョビのアルバムの中でも目立たない位置づけであろう。

      しかし、私は無性に時おり聴きたくなる。
      信念をもち苦境を自らの力で乗り越えた楽曲はひとつひとつが力をもって輝いている。

      思考停止で芯をもたずに生きた方が楽な時代だからこそ、敢えて自分の芯を貫く道を選ぶ。声高ではなく、淡々と粛々とおかしいことにはおかしいといい続けるぶれない力をもっていたい。辺見庸も語っている自分が立っている場所がまるで流砂のように崩れゆく時代だからこそ、苦しくとも辛くともしっかり立たねばならないのだと。

      「KEEP THE FAITH」 そう心の中でいまもつぶやいている。

      Xmasイブ前夜 結局はベートーヴェン

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        JUGEMテーマ:音楽
        今年1年、様々な音楽を聴いてきた。
        収穫だったものはクラシックではメンデルスゾーンの交響曲や伊福部昭の管弦楽との出会いがあげられる。
        洋楽ではマルーン5をはじめとして、台頭してきている若手のカラフルポップグループにも耳を傾けた。
        日本ではバックナンバーの楽曲が心に響いた。
        そして、クリスマスイブ前夜。

        結局はベートーヴェンである。
        最近頻繁に聴いているのはピアノ協奏曲の中での不滅の金字塔 5番「皇帝」である。
        指揮はジョージ・セル。ピアノはレオン・フライシャーである。

        実はフライシャーの音源は少ない。
        1940年代後半から1950年代にかけて登場したフライシャーは「100年に一度のピアニスト」といわれるほどの神童であったが、60年代に右手の神経障害を患い、演奏活動をやめることを余儀なくされる。しかし、いろいろな治療法を試し、ボトックス療法によって奇跡の復活をなすのである。
        そういう事情もあり、最盛期における音源が少なく手に入りにくいのである。

        このたび、タワレコの企画として再発されたこのピアノ協奏曲全集はそういう意味からも貴重であり、素晴らしい内容を誇っている。
        セルが指揮するクリーブランド管弦楽団の音がまずいい。セルが指揮するとこんなにも格調高くなるのかと改めて思わせてくれる。
        骨格がしっかりしており、フライシャーのピアノを支える音に言い知れぬ安定感がある。音の強弱のめりはりの付け方が素晴らしい。
        個人的には「皇帝」のベストテイクはロシア管弦楽団演奏、ピアノはミハイル・プレトニョフのものであるが、それに準じている。
        「皇帝」はピアノ独奏のカデンツァを排した協奏曲でもある。その理由は「ピアノの華麗で難しい技巧を曲の中に多数配したので、あらかじめ指揮者側できっちり構成してピアノを支えよう」という意図があったと聞く。
        同時録音されて収録されているモーツァルトのピアノ協奏曲25番も輝いている。
        音楽の愉悦がここにある。

        「永遠の不服従のために」 そして 「もう戦争は始まっている」

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          日曜日は図書館に行って読書に浸るという生活も定着してきた。
          今日もそうである。
          最近、貪るように読んでいるのは辺見庸のエッセイである。
          先日、紹介した「いま、抗暴のときに」の姉妹編とでもいえる「永遠の不服従のために」(毎日新聞社)、そしていま話題をよんでいる「1☆9☆3☆7」(金曜日)「もう、戦争が始まっている」(河出書房新社)である。

          「永遠の不服従のために」の時代背景は、小泉首相時の有事法制問題の時であった。
          そして、「もう戦争が始まっている」は言わずと知れた、安倍首相のもとによる集団的自衛権容認の安保法案可決のいまである。
          辺見庸はその間に病に倒れた。しかし、その舌鋒は衰えるどころか、最新刊のそれはブログの記事ということもあるのか、痛烈な罵詈雑言そのものである。安倍首相の舌足らずな演説を「もはや顔ではなく肛門がしゃべっている。」と切り捨てている。

          この本の中の共同通信編集局の沢井記者とのやりとりが心に響いた。タイトルは「歴史的な危機に五感を研ぎ澄ませ」である。
          1937年は言わずもがな、日中戦争がはじまった年である。近衛内閣のもと、国家精神総動員実施要項を閣議決定し、挙国一致内閣を誕生させた歴史的な年である。しかし、辺見庸は語る。必ずしも、戦時として認識されていたかというとそうでもない事実が空気としてあったということである。国鉄が「ミッキーマウストレイン」を走らせ、プロ野球大阪タイガースの優勝、横綱 双葉山の連勝に国民は沸き返っていたのだ。メディアも恐怖感をもっていなかった。そして、静かに戦争は進行していく。その姿はいまの写し絵ではないかという問いかけである。

          この箇所を読んで既視感を覚えた。そうだ。「永遠の不服従のために」の『戦争』という見出しの項である。
          「私が一番おそれるのは、何気ないどうかすると心休まる風景である。世界の外面には、圧倒的多数の人々のなんということはない「アズ・ユージュアル」があるけれど、内部にはそれとどうにも釣り合わない凄惨な光景がある。アズ・ユージュアルに生きる庶民は拷問の悲鳴に耳を傾けようとせず、想像すらしない。可視的な外面と不可視の内面の絶望的な関係性には根本的な変化はなかろう。今だってどこからか間遠に、人の悲鳴が聞こえてくるのだ。でも、私たちは隣人と同じ顔をした庶民であることを選び、悲鳴など聞こえなかったことにして暮らしている。そうするうちにも戦争の構造は膨らみつつある。」

          私は辺見庸の考え方に共感する。自分にとっては戦争を考えていくテクストである。そう語れば、ネットではサヨクといわれるのであろうか。辺見庸自身、公安に監視され、右翼からは脅迫状を受けてという日々を送っている。
          しかし、なんと言われようとも戦後最悪の安部ファシズム政権に対して、不服従という「私」としての気概は捨ててはなるまいと心に念じている。

          ジハーディ・ジョンの殺害から考えたこと・・・

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            「世界」(岩波書店)12月号 特集 終わりなき「対テロ戦争」を読んでいる。
            その中で、連載ものである神保太郎の「メディア批評」に目がとまった。
            フランス・パリでのテロ事件の前日、ISのジハーディ・ジョンと呼ばれるメンバーがラッカで殺害されたという「戦果」がアメリカの報道官によって発表された。
            ジハーディ・ジョンといえば後藤健二さんらを公開処刑した覆面の男である。
            周囲数十メートルを吹き飛ばすほどのミサイル攻撃が加えられた。
            当然、周囲にいた何の罪もない人も巻き添えになったことだろう。
            しかし、まて。この「ジョン」の殺害もテロではないのか。なぜこのテロ行為をメディアは非難しないのかという指摘である。
            なるほどもっともな考え方である。
            極悪人だと決めたら、容赦ない方法で無残に殺してもよいというアメリカの正義とはいったい何だ?
            そこから見えてくるのはアメリカにとって「テロリスト」とは犯罪人ではなく、殲滅すべき人間の価値もない存在というぞっとする価値観である。それはナチスのユダヤ人虐殺と同じ論理ではないのか。

            テロとの戦いといっているが、それは嘘だ。戦争では勝利が目的となるが、テロリストと決めた時から目的は殲滅である。永久的な地球上からの排除である。それを鮮明に打ち出したのは狂信的指導者ブッシュである。ビン・ラディンそしてサダム・フセインを殺した。オバマになったところで、その本質は変わっていない。

            しかし何度もいうがタリバン掃討作戦後に、ビン・ラディンは死んだが、アルカイダは細胞分裂し、ひいてはISという異様な勢力を生んだ。サダム・フセインは死んだがイラクは混乱状態に陥り、収拾がつかなくなった。めちゃくちゃにするだけして、憎しみを煽るだけの攻撃を他国に加えて、アメリカは投げ出した。悪者一人退治するために、多くの人々の命を容赦なく蹴散らす国である。今回同じ過ちを繰り返しているような気がしてならない。空爆を強化することでISを物理的に叩いたとしても、そのDNAは潜在的にアメリカなどに憎しみを抱いているイスラム過激主義者はまた新たな形で生まれることは目に見えている。

            テロ行為に屈してはいけないが、テロを生んだ根源的な背景責任についてアメリカなどの大国が真剣に考えなければ何も解決はしない。強く思う。

            いま、抗暴のときに

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              JUGEMテーマ:読書
              前回、久々に国際情勢がらみのブログを書きこんだ。
              言いたかったことは、テロ行為を断罪するだけでは、憎しみの連鎖をとめることはできないということと、ISを産み落とした存在としてのアメリカの国家としての暴力を忘れていいのかということである。
              そして、奇遇にも図書館で一冊の本に出会った。
              辺見庸「いま、抗暴のときに」(毎日新聞社)である。
              今から12年前に刊行された本である。
              そのなかで、辺見庸が暴力について語っているのだが、自分自身の思いとのあまりの相似に驚いたのである。
              そのまま紹介する。
              「米国を中心とする巨大な国家暴力あるいは絶対暴力にはいわば根拠のない認証を与えておいて、反国家テロについては闇雲に指弾するのでは根源の矛盾はいつまでたっても見えてはこない。アフガンに対する攻撃は戦争ではない。あれは米英の絶対暴力による一方的な虐殺でした。米国の絶対暴力を容認したり、拱手傍観したりするのなら、個人による暴力や殺人を法的に裁く根拠もなくなるのではないか。世界で最も多くの大量破壊兵器を保有し開発している国家が、他国の兵器開発に難癖をつけ、その政権と民衆を大量破壊兵器をもって殺すことがなぜ許されるのか問い詰める必要がある。パレスチナの自爆テロが間違っているなんて、とても言えない。我々が仮にヨルダン川西岸、ガザ地区に生まれたらシャロン政権のあれだけの暴力を前にすれば、相当の確率で自爆テロ志願者かその支持者になる可能性がある。そういうリアリティの中で、僕は生きざるを得ないと思う。」
              ここで述べられているテロ国家はフセイン率いるイラクであり、ビン・ラディンが隠れたアフガニスタンである。
              ガザ地区へのイスラエルの空爆は凄惨を極めた。
              あれから12年たったいま。世界の状況はどれだけ変わったといえるのか。
              イラクをつぶした中からISは生まれたのだ。米国への憎しみを加速させて・・・
              テロを許すまじというのなら、アメリカ中心の国家としての絶対暴力にも反対という姿勢を見せなければ解決の道など見えてこない。
              改めてこの本を読んでそう感じた。

              Mush your rain dum-a-do-dum-a-di

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                JUGEMテーマ:日記・一般
                ISによるフランスでのテロ事件を発端にして、有志連合の名のもとにヨーロッパ諸国が空爆を強化している。
                慎重だったイギリスも加わり、ドイツのメルケル首相も後方支援を表明した。
                そんな中で、トルコによるロシア機の誤爆をめぐって、互いの首相がISに石油を打って利益を得ている国であると互いに指弾しあう泥仕合が起こり、昨日は有志連合の空爆によってシリア政府軍の兵士が犠牲になった。
                時を同じくしてアメリカやイギリスでは一連のテロ行為に感化された「ローンウルフ」が銃を乱射している。

                もううんざりだ。

                そもそもISを産み落としたのは誰だ?大量破壊兵器ありきで国連の査察を無視して、強硬にイラク戦争に踏み切ったアメリカではないか。結果的にイラクという国家を破壊するだけ破壊して、戦後処理も放り出し、憎しみだけを残す形となった。
                やったことはサダム・フセインを死に追いやったことだけ。ただの乱暴狼藉ではないか。
                そして、憎しみの種子をたくさん蒔いた。
                空爆を強化してもピンポイントでISだけを攻撃の的にすることなど不可能。
                むしろ、多くの名もなき子どもや女性や老人が被害を受けているという事実。国境なき医師団の病院への誤爆も起こった。9.11後のアフガニスタンでのタリバン掃討と称してのむちゃくちゃな攻撃と全く同じ愚挙の繰り返し。

                もううんざりだ。

                今日12月8日は真珠湾攻撃の日。日本の暗号を傍受しながら、先制攻撃を故意に仕かけさせ戦争を正当化したルーズベルト。
                アジアへのソ連の進出を封じ込めるために落とす必要のなかった原爆を投下したトルーマン。
                朝鮮戦争への関与、ベトナム戦争での敗北、湾岸戦争、イラク戦争・・・。
                他国に出向きテロ行為以上の大量殺戮を綿々と行ってきた国こそアメリカではないか。

                そのアメリカに隷属する形で安保法制を強硬に可決し、基地問題で沖縄県と裁判闘争をしているわが国は一体何だ?
                ジャーナリストの湯川さんと後藤さんを見殺しにしたくせにテロ行為は断じて許せないなどという腰砕けの説得力のない言葉を繰り返す安倍首相。気概も骨も全くない。しかし、内閣支持率は回復してきている。民主党をはじめ野党の体たらく。まともな国会議員がいないという証拠。つくづく情けない国になったものだ。

                Mush your rain dum-a-do-dum-a-di
                厄介な雨はざんざん降り・・・
                 

                ジョージ・セルのタクト

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                  JUGEMテーマ:音楽
                  ロッシーニの序曲集を聴いている。
                  ジョージ・セル指揮によるクリーブランド管弦楽団の1967年録音のものである。
                  一言でいって「素晴らしい」に尽きる。
                  ロッシーニの序曲集は今まではノリントン指揮の演奏を愛聴してきたのだが、その評価は今回のセルのものを聴いて変わりそうである。
                  選曲は地味目である。「ウィリアム・テル」「セビリアの理髪師」など入っていない。
                  しかし、その魅力はロッシーニ・クレシェンドと呼ばれた漸速・漸強の特性を十二分に生かし切っている点にある。
                  聴いていて気持ちが高まっていくのである。堪らない至福の高揚感である。
                  曲の最後は勢いもそのままになだれ込んでいくようで、まさにエネルギッシュそのもの。
                  お気に入りは「ランスへの旅」「アルジェのイタリア女」である。
                  フランソワ・オーベールの序曲「フラ・ディアヴォロ」、ベルリオーズの「ローマの謝肉祭」も見事な演奏である。

                  にんじん

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                    JUGEMテーマ:読書
                    ジュール・ルナールの自伝的小説といわれる「にんじん」(新潮文庫)を読んだ。
                    訳者の高野優氏があとがきで触れているように、この小説は「虐待された子どもが辛い状態を生き抜く物語」である。
                    今だからこそ、読む意味のある小説であると感じた。
                    母親のひどい仕打ちに対して耐えるにんじん。
                    特に、おねしょの罰としてにんじんのおしっこをスープに混ぜて飲ませ、物笑いにする「ひとには言えないこと」などは読んでいて本当に心が痛む。
                    だからこそ、名付け親のおじさんと過ごすひと時のシーンは心が温まるのだ。
                    そして、最後の3編「自分の意見」「反抗」「最後の言葉」では母親からの愛を求めるがゆえに、虐待にも慣れてきた弱いにんじんの姿はない。虐待する母を拒み、自立していこうとするたくましさが描かれている。思わず「いいぞ、にんじん。」と声をかけ、励ましたくなる。

                    このにんじんの成長物語のなかには、にんじん自身が弱いもぐらや猫を殺すシーンもでてくる。いくら叩き付けてもなかなか死なないもぐらこそにんじんそのものである。にんじんはもぐらの中に自分を投影させているのだ。残酷なけだものと母親にののしられた心の傷がにんじんの自己肯定感を損ない、残酷な行動に走らせているのだ。
                    冒頭に自伝的小説と書いたが、精神科医の言葉によれば、ジュール・ルナール自身「自己評価は低い」という所見が残されている。

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