ハイドンの到達点 オラトリオ「四季」

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    JUGEMテーマ:音楽
    大好きなクラシック音楽ではあるが、その中でもあまり耳にすることのないジャンルというものがある。
    オペラや声楽曲である。人間の声が最高のものであり、楽器はそれに付随するものであるという考え方が古くからヨーロッパにはあった。その因習というか価値観を打ち破ったといわれるのがベートーヴェンである。
    今日はベートーヴェンの話ではない。

    苦手な声楽曲の中でも別格のものがある。これだけは聴くという名演である。
    ハイドンオラトリオ「四季」。正式名、独唱、二重合唱と管弦楽のためのオラトリオである。
    ベートーヴェンの師匠であり、交響曲を体系化したハイドン 70という老齢期に作曲した後世に燦然と輝き続ける傑作である。
    音楽学者のトーヴィが「この作品自体で完結したひとつの音楽のジャンル」と語った通り、ハイドン随一の至芸の到達点とも称えられる作品である。

    ハイドンが交響曲で確立した様式美と瑞々しい感性による空想力が織りなす見事な作品である。

    「春」の緊張感を伴う荒々しい序奏にまず心奪われる・・・ハイドンが交響曲では決して使わなかったトロンボーンまで動員している。その後の独唱、合唱の流れに身を委ねているのは至福の一言に尽きる。

    指揮はフィリップ・ヘレヴェッヘ、シャンゼリゼ管弦楽団の素晴らしい演奏である。

    ムハンマド再掲載問題

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      JUGEMテーマ:日記・一般

       仏週刊紙「シャルリエブド」が預言者ムハンマドの風刺画を再び掲載し、イスラム社会が反発している。表現の自由は大切だ。異文化を尊重する節度は守り、多様さが融和できる社会を築きたい。

       預言者を描くことをタブーとするイスラム教徒が多い国々からは反発が相次いだ。トルコのダウトオール首相は「表現の自由は侮辱の自由ではない」と批判した。西アフリカのニジェールでは抗議デモが暴徒化し、十人が死亡した。

       表現の自由が重視されるフランスの世論調査でも今回の風刺画掲載には四割が反対。ローマ法王フランシスコも「他者の信仰をもてあそんではならない」と訴えた。

       欧州連合(EU)諸国では域内“異文化”のイスラム系住民への風当たりが強まっている。フランスではモスク(イスラム教礼拝所)への銃撃や手りゅう弾投げ入れなどが相次いだ。四百万人のイスラム教徒が暮らすドイツでは「ペギーダ」と呼ばれる反イスラム団体のデモが活発化。独メディアは、デモで飛び交った「民族の裏切り者」などのヘイトスピーチがナチス時代にも使われていたことを指摘、人種差別のエスカレートに警告している。欧州は戦禍を繰り返さないためEU統合を進め移民を同化させ、多文化社会を築いた。戦後七十年の今、その歩みを頓挫させてはならないはずだ。

        今日の東京新聞の社説からの抜粋である。自分が先日、この話題についてブログに述べたような事態が欧州諸国で進行している。悲しいかなやはりというべきであろうか。
       ローマ法王の言葉がすべてを言い表している。表現の自由の御旗のもとに、他国や他地域の信仰を侮蔑することは決して許されることではない。キリスト教が絶対的な価値であると考え、イスラム国の愚行・蛮行とイスラム教を混ぜこぜに同一にとらえ、イスラム教全体を貶めることは理性的とは言い難い。まして、敵視し攻撃に転ずる者は結局襲撃したテロリストと同じ穴のムジナではないか。

      いままさにイスラム教とキリスト教の対立構造のようになっていること事態が、旧時代への逆行であり、退行である。


      鬱な気分をぶっとばす 「昭和歌謡大全集」   

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        JUGEMテーマ:読書
        読みたかったのだが、今まで未読だった本というのは何冊かある。
        その一冊が、このブログでは毎度おなじみの村上龍「昭和歌謡大全集」である。
        「長崎オランダ村」にしろこの作品にしろ、売りたいと気持ちが正直あまり伝わってこないタイトルではある。
        内容も、誰にも必要とされたことのないカラオケ好きの根の暗い若者6名のグループと、男性を真剣に愛したこともなければ、愛されたこともない30代半ばのおばさんグループ「みどり会」の些細なことをきっかけに起こる殺戮抗争のみである。
        揚句の果てには、ロケットランチャーや燃料気化爆弾まで登場し、調布市が吹き飛ぶという荒唐無稽な展開でクライマックスを迎える。
        凡百の作家なら、なんだこれというキワモノ小説で終わるであろう。
        そこが、村上龍。
        ぐいぐい、この狂気の世界に引きずりこむ。感性を刺激して止まない。
        どのページもブラックな笑いととてつもなくグロテスクな殺しのシーンに彩られている。

        最後の章。生き残った若者二人であるイシハラとノブエに原爆づくりを教示するハセヤマゲンジロウの言葉が印象的だ。

        「おばさん達は、難しく言うと進化を止めた生き物なんだ。若い女はもちろんのこと、若い男も中年の男も、子どもだって、進化しようという意志をなくすと、その瞬間におばさんになってしまうんだ。それは恐ろしいことだよ。誰も気づいていないが、おそろしいことだ。」

        この言葉が妙に自分の心に響いたのは、ブルーハーツの甲本ヒロトも歌っていたが、おばさん化したバカが我が国では大手を振って歩いているからであろう。ともあれ理屈抜きに鬱な気持ちを軽々とぶっとばす一冊であることは間違いない。

        涙のムハンマド掲載問題から

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          JUGEMテーマ:
          表現の自由か?宗教への冒涜か?
          フランスで起きた、「シュルリー・エブド」銃撃事件以降の「涙のムハンマド」の掲載問題についてである。
          日本の新聞社の対応は二つに割れた。
          問題提起として掲載した産經や日経、東京。
          テロは許すまじであるが、イスラム教信者の気持ちを考え、相手への敬意のもとに言論の自由な成り立つという朝日や毎日。
          そういう態度に一貫性がないと叱る大学教授もいるが、掲載するか否かはあくまでも非イスラム世界の議論という同志社大学の内藤教授の考えが一番心に響いた。

          ムハンマドというと聞きなれないが、私の世代は高校の世界史でイスラム教の開祖 マホメットと習った。
          調べてみて分かったことは、キリスト教はイスラム教のムハンマドに対して敵対心をもち、あの聖地エルサレム奪還を試みた十字軍の遠征にそれが顕著にあらわているということである。
          つまりキリスト教徒にしてみれば預言者はモーセやイエスで十分であり、ムハンマドなどどうでもよい軽い存在であり、もっといえば邪魔な存在という感覚でしかないのである。
          そういう根深い差別・偏見を理解した上で、この諷刺画問題をとらえてみると、イスラム教の信者にとっては、ムハンマドの涙という絵は諷刺画でもなんでもなく、自分のよってたつ考え方の源でもある存在への冒涜とみなす不愉快極まりない絵と考えたほうが自然である。そういう最低限度のイスラムに対してのリテラシーももたないなら報道は避けるべきという指摘を内藤教授はしている。賛成である。
          今までにも再三、「シャルリー・エブド」はムハンマドに対する侮蔑的な絵を掲載し続けてきた。その背景にあるキリスト教絶対主義という価値観を隠しながら。あえて、フランスではごく少数のイスラム教徒の心情を逆なでするようにである。日本ではそういう事実は決して伝えられない。そして、フランスを中心に今や9・11のテロの反動でブッシュが起こした一連の戦闘行為につながるような、いいかえれば報復行為を称賛するような雰囲気が形成されつつある。憎しみの連鎖の発動である。
          同じことを繰り返してはいけない。
          テロ行為への非難は至極当然であるが、一方で、多宗教への冒涜・偏見という問題とをきっちり分けて考える理性が試されているのではないか。私は強くそう思う。

          小澤征爾と佐渡裕 ベートーベンの新たな名演

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            JUGEMテーマ:音楽
            ここ数日はベートーヴェンの交響曲三昧である。
            小澤征爾指揮の発売したての新譜を聴いている。交響曲4番と7番である。演奏は水戸室内管弦楽団
            3番「英雄」と5番「運命」にはさまれた4番は知名度は高くないが、シューマンが『アポロンの乙女』と評した均整のとれたたおやかな交響曲である。個人的には3番や5番以上に愛着をもって聴き続けてきた。
            7番はどちらかというとベートーヴェンの中では苦手な交響曲であった。
            ワーグナーが『舞踏の神化』と評したように、繰り返しのリズムの強弱を多用した斬新な交響曲である。
            特に3・4楽章の迫力は見事である。
            ただ、苦手であった。
            テンションが高すぎるので、聴く側のこちらのコンディションも整えておかないとしんどさを感じてしまうからだ。
            だが、この小澤征爾の7番はいい味を出している。
            楽団をひらすらドライブするのではなく、演者の持ち味にゆだねている感が伝わってくるので、窮屈にならず心地よいのだ。
            小澤征爾も80歳。スクロバチェフスキには及ばないものの、老齢のタクトは若い時とは一味違う滋味を醸し出している。

            新譜といえば、佐渡裕の交響曲5番「運命」もすばらしい。
            1月下旬公開の映画「マエストロ!」の劇中曲である。数多の「運命」の中でもまちがいなく出色の出来である。
            ベルリン交響楽団の演奏が実に感動的である。
            新たな名演が誕生した。

            白鳥

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              村上龍の1997年刊行の短編「白鳥」を読んでいる。
              「ライン」もこの時期の作品であった。
              村上龍の作家としての勢いを感じる時期ではないだろうか。
              この短編集の中で心に残っているのは「ムーンリバー」である。
              孤独な、両親が難病に冒され、一人で生きていくことを余儀なくされた少年の体を離れて存在するボーイ。ボーイがさすらう暴力的な街の中で、ある―人の女性と出逢う。月が輝いて映る池の前で。このあたりの描写は実に寓話的でうつくしい。
              その女性の語る四角形のイヤリングのエピソード。
              外の醜い世界と戦い続けるための象徴。「決してまともになろうなんて思っちゃだめ。いつかあなたもオーロラを見るかも知れないし、そのことを誰かに語るようになるかも知れないわ」

               

              ライン 村上龍の世界

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                いま、村上龍「ライン」を読んでいる。
                ラインといっても今はやりの「LINE」ではない。
                1998年刊行である。
                いやはや、すごい小説だ。村上龍にしか書けない世界である。
                出てくる登場人物は半殺しにされたSM嬢、男の圧倒的な暴力から逃げきれない看護師、恋人を殺してボンネットにつめて走るキャリアウーマン、弱いものにしか話しかけない深夜のマザコンコンビニ徘徊男、IQ170のウェイター、そしてタイトルに直接関係する受話器のコードを見るだけでライン上で交わされる会話が見える女など。
                その背景にあるものは幼児の時の親からの虐待、近親相姦、いじめなど。どう考えてもダークな世界である。
                だが、村上龍はとことんダークな世界を描きながらも、ほのかに明るさを滲ませるのだ。
                それは、彼の最高傑作のひとつである「イビサ」に共通している。
                とことん破滅的なストーリーを描きながらも、全く暗くない。読後感も悪くない。
                だから、私は好きなのだ。
                「イビサ」のあとがきに、「毎月、これを書くときは脳にフルパワーをかけ、針がレッドゾーンに入ってもパワーをゆるめず、ターボチャージャも使った。」と記している。
                「ライン」もある意味そういうパワーをもった小説である。
                あと40ページで読み終えてしまうのが残念である。
                20年前にして現代社会のコミュニケーションの薄っぺらさとその薄っぺらさに依存している私たちの心の中の閉塞感や孤独を見事に予見している。スマホをいじってなければ安らかになれない心はまさしく病んでいるのだ。
                だから、一人一人の登場人物がとても現実的に見えてくるのだ。
                おもしろ、こわい小説である。

                ジョー・ロビンソン「GEMINI」

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                  JUGEMテーマ:音楽
                  とびっきりCOOLなアルバムに出逢った。
                  ジョー・ロビンソン「GEMINI」である。
                  タワーレコードの試聴機でしばらく聴いていた。
                  ジャンルでいえば、どちらかといえばスムースジャズに近い音色ながら、カテゴライズ不能のとても心地よいサウンドである。
                  衝動買いして、今日はずっと聴いている。
                  次世代のギターヒーローなどという肩書がついているが、力みはいっさいなく、心に迫ってくる。
                  基本はファンクとブルースを軸にしながら、時折、感性のつぼを直撃するギターの音色が最高である。
                  速い曲では2曲目のインスト「TOE JAM」が抜群である。ギターが好きな人、特に高中正義やジェフ・ベックのように尖がった音が好みの人にはたまらない曲である。次の「Ebb&Flow」はこのアルバムのキラーチェーンだ。かっこいい。
                  こういう曲がかかるバーで夜を過ごしたいものだ。その他、静かな曲も実にブルージーで心にしみてくる。
                  また、ボーカルが妙に中性的な甘さを放っているのも独特な雰囲気を醸し出している。
                  ふと、CDショップに立ち寄って、こういうアルバムに出逢えるから音楽は素敵なのだろう。
                  一押しである。

                   

                  福島 飯館村より 鎌田 實さんのコラムを読んで

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                    ぼくの書いた「雪とパイナップル」(集英社)が、中学の国語の教科書に載っている。それを読んだ福島県の飯舘中学校の生徒から呼ばれ、昨年12月、福島市にある仮設校舎を訪ねた。教室に立つと、椅子に座った生徒たちが一斉にこちらに注目。目がとても輝いているのにハッとした。

                     飯舘村は、福島第1原発の事故で放射能の「ホットスポット」ができ、今も全村避難が続いている。その子どもたちは故郷・飯舘に戻ることができず、つらい体験をしている。生徒たちの目の輝きは、ぼくの先入観を破るうれしい反応だった。(中略)

                     放射線への不安は強いようだ。飯舘中の生徒は、体内被ばく測定を受けており、幸いなことに体内被ばくした子はいない。今後も、放射能の見える化を徹底しながら、毎年、体内被ばく測定も含めた健診を受けて、確認していくことが大切だと話した。

                    「いつ飯舘村に帰れますか」 とてもストレートで難しい質問も出た。

                     飯舘村では、年間5ミリシーベルトを目指し、2016年3月に避難解除したいと考えている。だが、その状態になったとしても、子どもたちが帰村するかどうかは別の判断が必要との考えもあるようだ。

                     また、放射線と健康について詳しいある専門家は「個人の被ばく線量の典型的な量は、1〜13ミリシーベルト。これがおおむね世界の平均である。この範囲に収まればそれほどリスクはない」と言う。

                     ぼくは、いろいろな考え方があることをそのまま生徒たちに伝えた。そして、ぼく自身は、チェルノブイリ原発事故で放射能汚染がひどかった多くの地域がそうであるように、子どもたちに関しては年間1ミリシーベルト以内の被ばく量にとどめることを目標にすべきだと考えを述べた。

                    これは毎日新聞に一週間前に掲載された医師である鎌田 實さんのコラムである。
                    鎌田さんが高校生に話された年間1ミリシーベルト以内というのはとても意味がある。
                    なぜなら、世界最大級の原発事故といわれているチェルノブイリ原発事故以降、人の居住できる地域の最高被曝線量の値は3から4とウクライナでは決めたのである。
                    福島の事故はチェルノブイリと同レベルと専門家は指摘している。しかし、日本の基準値は子どもが年間被曝してよい値を20ミリシーベルトと決めているのだ。考えられない数値である。
                    専門家によっていろいろな考え方があってもよいとは思うが、ことさら放射線の怖さを矮小化し、高い基準値を設定する政府の考え方は人命軽視である。
                    最低基準値がどのような過程で決められたのか。どのような根拠があるのか。はたまたどういうふうに国民に告知したのか。全く分からないシステムになっている。一部の興味関心のある人間が本を読まなければ知ることができないというのはおかしな話である。
                    チェルノブイリを見れば、悲しい話ではあるが高校生が飯館村に帰村し、生活を続けていくことは極めて困難であろう。その悲しさをいつになったら私たちは自分のこととして共有できるのだろうか。特に、電気をむさぼるように使っている首都圏の人間は。


                    ゴッホとベートーヴェン 耳にまつわる奇妙な符号

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                      JUGEMテーマ:読書
                      大好きな一冊のサブカルチャーの本がある。「愛と哀しみの記念日」(東京書籍)である。
                      1991年刊行なので、はや20年以上が経ってしまった。
                      久しぶりに取り出してぱらぱらとページを繰ってみた。
                      心にとまったのは、ゴッホについて書かれたページである。
                      情熱の画家、ゴッホは3月30日生まれ。3といえば耳の形状に似ていることから3月3日は耳の日に定められている。
                      ゴッホと耳といえば、狂気にかられた耳をそぎ落とした事件が有名である。
                      著者の野元 摂さんはゴッホは耳の何を嫌ったのかと推理する。形状、顔に付着している意味か?
                      生涯にわたってゴッホを支え続けた弟テオとの書簡のやり取りの中にヒントがある。
                      「私は三度、そいつにそこをどけよと言った。どかなかったから切り取った。」

                      この事件の直後、ゴッホは精神状態の不安から病院に進んで入り1年間の入院生活を送る。
                      そして、退院後、ゴッホの芸術の頂点ともいえる作品を世に生み出していくことになる。

                      そこで野元さんの推理である。ゴッホが耳を嫌悪したのは「機能」つまり他人の話を聞くということだったのではないか。
                      「決して他人のいう事など聞くまい。」そう心に決めたゴッホの真に孤独になろうとしたほの暗い情熱が爆発したのではないか。
                      外界とのコミュニケーションをすべて断ち切ったところからうまれる闘い。そう推理している。

                      なるほど、ベートーヴェンも耳が聴こえなくなってから傑作を創りだした。奇妙な耳につながる符号である。
                      激情化タイプの芸術家にとって芸術こそ命を懸けた闘いであり、心の平和などないのは当然なのだろう。
                      愛する女性と別れ、生涯結婚や金銭的な幸福とは無縁の苦しみのなかに生きた二人の芸術家。かれらに強く共鳴するのは、自分もそういうタイプであるからだろう。ただし、自分は妻を愛しているし、平々凡々な一教師にしかすぎないのけれど。

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