村上春樹さんがこのほど、京都大で公開インタビューに応じたことが話題になっている。日本の現代文学を代表する存在で、新作がいきなり100万部刷られた人気作家だが、国内で一般の人たちの前で語るのはきわめて珍しい。交流が深かった臨床心理学者、河合(かわい)隼雄(はやお)さん(2007年死去)の名前を冠した賞が創設されたのを記念しての催しだった。2時間半にわたり、ユーモアを交えて率直に語り続けた。
最も印象的だったのは「物語」をめぐる言葉だった。人間を2階建ての家にたとえるのが村上さんの持論だ。1階には家族が住んでいて日常生活をしている。2階では個人に戻って読書をしたり、音楽を聴いたり、眠ったりする。地下1階には記憶の残骸が置かれている。
地下1階からは浅い物語しか生まれない。そのさらに下に闇の深い部屋があって、そこにこそ本当の人間のドラマがあるというのだ。魂に響く物語を紡ぐには、この闇に入り、正気で出てこないといけない。
地下1階で小説を書くと批評しやすい作品ができる。そういう作家はいっぱいいる。でもその下に行かないと人の心をつかむ物語は生まれない。両者は人の心の温め方が、ただのお湯と温泉ぐらい違う。
人間は誰でも自分が主人公の物語を持っている。大人になるに従って、それは複雑化していく。読者は小説に書かれた物語を自分の物語と比較すれば、自分の生き方を問い直すこともできるだろう。作家と読者の物語が共鳴すると魂がつながる。
今日の毎日新聞の「社説」からである。
とても心に響く話である。
自分の心と多崎つくるの心がシンクロしたという話は前回のブログでした。
小説の世界の中を歩く醍醐味とは、期待する物語の結末に向かって歩くことではなく、登場人物とともに歩きながら生き方を見つめ直すことにあるのだという思いを強くした。
そういう小説に出会うために読書をしているといっても過言ではない。
ドフトエフスキーの「罪と罰」しかり。
魂を揺らす小説を求めての探索の旅である。
多崎つくるのお話は、少なからず自分の魂に問いかけてくる内容であった。
村上春樹自身が語っているように、人と人との関わり方についての話である。
なぜ、あの人と出会い、別れたのか。別れなければならなかったのか。
そこには理不尽さも不可解さも含まれる。
その網の目に足元を絡め取られながら、私たちは日々を生きている。
しかし、心の内奥ではいつまでもかさぶたにならない傷のように、その答えのありかを探しているのだ。
その人間の心に潜む苦しくも切実な思いに光をあてた見事な作品である。