脳は0.1秒で恋をする

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    茂木健ー郎「脳は0.1秒で恋をする」をー気読みした。
    0・1 秒というのには若干誇張があって最新の研究報告では、一目惚れに用する時間は0・5 秒である。いずれにしても瞬間的に脳は判断しているわけである。

    瞬間的に判断するのは偏桃体といわれる脳の内部にある器官であり、そこから大脳新皮質に伝わり、相手を価値観などから理性的にとらえるようになるのである。

    本には書かれていない事実としてー目惣れで結婚したカップルの方が熟慮の末恋愛をしたカップルより離婚率が低いという興味深いデータがあるということである。

    一目惣れは一瞬の判断であるが、できちゃった婚との決定的な違いは、衝動的に結婚と結びつくわけではないということである。

    また、男性の方が失恋の尾をひく理由として、それぞれの恋愛を別フォルダに保存しているのに対して、女性は、恋を1つのものとして考えて上書き保存しているという話も面白かった。

    女性は、子どもを出産する適齢があるのでひとつひとつの恋に対しての感傷の時間も短く、次の恋に対してのモラトリアムの時間もかけられないという理由が考えられている。

    そして、逢わない時間こそ、恋愛を育てていくためにはとても重要な時間であり、相手のことをじっくり考えることこそが恋愛の質を高めていくという話に妙に共感してしまった。

    これぞ歴史的名作 「殺意」

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      今まで未読であった名作中の名作推理小説「殺意」(創元推理文庫)を読了した。
      倒叙推理小説の三大名作のひとつといわれている。
      あとの2冊はクロフツの「クロイドン発12時30分」、ハルの「伯母殺人事件」である。

      読んでみて、フランシス・アイルズのこの「殺意」がベスト1ではないかと思う。

      主人公のビクリー博士の心理描写は緻密であり、非常に緊迫した展開になっている。

      殺人を芸術にたとえ、正当化する描写は、ドフトエフスキーの「罪と罰」の主人公の姿を想起してしまった。

      「過去の探偵小説を、犯罪と探偵の興味を取り入れた文学作品にまで発展させるためには、数学的な手法よりも、心理学的な手法に重点を置くべきであろう。謎の要素はみろん、必要だが、それは、いつ、どこで、誰が、というような謎よりも、人間の性格そのものの謎ときに進むべきであろう。」

      作者の言葉は、松本清張の推理小説についての考え方に似た部分がある。
      しかも、この言葉を発したのが今から80年以上前というのが特筆すべき点である。

      「殺意」はみごとな心理描写の作品であり、素晴らしい質をたたえている。

      最後の一ページの幕切れは、どんでん返しという言葉を使うのがはばかられるほどの鮮やかさであり、深い余韻を読者に与える。
       

      いたたまれないニュース フクシマ 村民の心の崩壊

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        毎日新聞WEB版の今日のニュースから

        東京電力福島第1原発事故で計画的避難区域に指定され、全村避難を強いられている福島県飯舘村の菅野典雄村長が毎日新聞の取材に「ストレスで避難民にいがみ合いが生じている」と述べ、村民の「心の荒廃」に懸念を示した。別々に避難している家族も多く、村のアンケートでは「自分や家族の健康状態が悪くなった」との回答が60%、「イライラすることが増えた」は39.9%。放射能汚染で先を見通せない避難生活が大きく影響しているとみられ、原発震災の深刻さが浮かんだ。

        飯舘村は昨年4月22日に計画的避難区域となり住民の大半は県内外で避難生活を送る。菅野村長は「心の痛み、家庭の崩壊が進んでいる。戻りたい人と戻れない人、家族同士、世代間の葛藤がある」と指摘した。

        特に、仮設住宅で暮らす約3割の村民と、県の借り上げ住宅などに点在する村民との対立が目立ち「なんで仮設ばかりに支援物資が行き、借り上げに来ないのか、と言い合うようになり、『差別だ』との声まで出ている」という。村民のうち2708人を対象に行い1743人から回答を得て村が先月まとめたアンケートでも「仮設住宅以外にも公平な支援を」との訴えが80人に上った。

        このアンケートによると、震災前と同様に「全ての子供と一緒に暮らしている」のは55.7%にとどまり、「避難に伴い全ての子供を別の場所に避難させた」は21.3%、「一部の子供を別に避難させた」は15.4%。3分の1以上は親子が別々に暮らし、祖父母も含めて同居していた家族が別々に暮らす割合は50.1%に上る。

        また、収入は5割かそれ以上減った人が34.7%。体調の変化では「睡眠があまりとれていない」が36.8%、「たばこやアルコールを飲む回数や量が増えた」が17.9%。

        自由回答では「急に飯舘村のことを思うと悲しくて涙がとまらなくなり、途方に暮れ不安になる。子供が突然涙を流し帰りたいと言う」「県外に避難したと非難され、友人との仲が悪くなった」「生きていることがつらくなった」「やる気が起きない。食欲がない」などの悩みが多数寄せられた。

        菅野村長は「天災ではなく人災、何も悪いことをしていないのに無理やり避難させられたという思いが村民にはある」と指摘。「以前は冷害で苦しんでもお互い様で、助け合う意識があった。天災なら苦しい時期があってもゼロからのスタートができる。だが、放射能汚染相手だと3年先、5年先でもスタートを切るのは簡単ではない」と、気持ちの整理をつけられない村民の思いを代弁する。

        「これが放射能(という目に見えない災害)の特殊性。だから除染はここ1、2年が勝負。本気になって『帰れるんだな』という思いを作らないとダメなのに、国の認識は非常に甘い」と語った。【北村和巳】

        何ともいたたまれないニュースだ。
        村民の思いが痛いほど分かる。
        原発事故は明らかに人災である。想定外という言葉を乱発して自然のせいにすればいいということではない。
        東京電力の企業への大幅な値上げ宣言など、その不遜な殿様経営にいま、各事業体から怒りが向けられている。まず値上げありきの姿勢に腹が立つ。
        やるべき責任をすべて果たしたうえで、値上げについて話をしてほしいと思うのは健全な精神をもっている人間なら当然考えることであろう。
        「値上げ」は経営者の権利。現社長のコメントだ。
        ふざけるなと言いたい。
        値上げせざるをえない状況をつくったのは東京電力ではないか。

        そういう傲慢体質が根底にあるから未曾有のフクシマのような惨禍を招いたのだ。
        都合よく事実を隠蔽し、嘘をつく。
        それを放置しているマスメディアの大半。
        フクシマの問題は日本の問題である。

        自分たちが使う電気を供給してもらっていながら村民が直面している問題を等閑視してはいないか、首都圏の人間はもう3.11を忘れつつある。

        記事の中で気になったのは村民の健康状態の中での心の崩壊である。
        体調不良の中での不眠ほど辛いものはない。完全に鬱状態に陥っている人も多いのではないか。
        自分が経験者だからよくわかる。
        故郷を追われ、家族とも離れ離れ。家庭崩壊の寸前という言葉は辛すぎる。

        原発などいらない。改めて強く想う。
        電力より大切なものがあるだろう、故郷。心の絆。家族。人とのつながり。
        今でも原発必要論をぶっている人間は自分の故郷がとか、自分が家族と離れ離れになったらという他者への想像力が欠如しているのだ。

        脱原発を提唱したドイツの動きは極めて迅速だ。
        こうだと決めたら行動する。そういうポジティブな姿勢を見習うべきだ。

         


        6年ぶりの寒冬に想うこと

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          オキシモランとは、矛盾する語を並べて効果をあげる修辞法だ。語の意味がぶつかり合うということで、日本語では撞着(どうちゃく)語法などという.
          英語の辞書には、「無慈悲な親切」「ゆっくり急げ」などが例示される.


          暖冬という言葉があるが、よく考えたら語の意味がぶつかりあっていると考えれば、オキシラモンといえる。

          今年は気象庁の発表によると六年ぶりの「寒冬」だということである。
          冬は寒いのが当たり前だったため、広辞苑にはこの寒冬という言葉は掲載されていない。

          とすると、当たり前の冬の到来ということになる。

          ただ、このところ頻発している地震などのことを考えると、被災地の東北地方の方々にとっては、当たり前の冬の寒さが身にこたえているだろうと想像できる。
          今年の風邪やインフルエンザは明らかにこの寒さが主原因であるといわれている。
          被災者の方の身を案じるばかりだ。

          とはいえ、来週には節分、立春を迎える。

          厳しい寒さの中での「春」という言葉は、実感としてはぴんとこないものの、希望をもたらす言葉でもある。個人的に、春は好きな季節である。

          昨年は2月下旬から体調を崩し、耳が聞こえなくなった。自宅療養中で3.11を迎えた。
          あの時のすさまじい揺れは忘れられない。

          苦しみの中からの年度のスタートだった。

          しかし、開けない夜はない。
          必ず、朝は来る。
          希望を胸に久しぶりの寒冬を乗り越えていくだけだ。

          アウシュビッツと原爆の風化問題

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            【ベルリン=弓削雅人】ドイツの若者の五人に一人が、第二次世界大戦中のアウシュビッツ強制収容所がナチス・ドイツによるユダヤ人の絶滅を目的にした収容所だったことを「知らない」と答えていることが、二十六日発売の独誌シュテルンの調査で分かった。

             調査は、同収容所が旧ソ連軍によって解放されてから六十七年に当たる二十七日に合わせ、ドイツに住む約千人を対象に行った。

             それによると、回答者の90%はアウシュビッツが強制収容所だったと正しく答えたが、31%は収容所が現在のポーランド南部にあることを知らなかった。十八〜二十九歳の若年層では、21%が収容所が何だったかも「知らない」と答えた。

             アウシュビッツ収容所では、連行されたユダヤ人がガス室などに送り込まれ、約百五十万人が犠牲になったとされる。跡地は博物館として保存され、二〇一〇年には世界から百三十八万人が訪れた。

            かれは今日付の東京新聞のWEB版に掲載されていた記事である。

            ドイツだけが深刻なのではない。

            広島の小中高校生を対象にした原爆を投下された日を8月6日と正確に答えたつまり理解している子供たちの割合が3割だという事実が報告されている。

            なぜ、こういう事態が引き起こされているのか。それは日本でいえば平和教育と人権教育をからめた学校教育が一貫性をもって実施されていないということと同時に、通史的な学習では当然、近現代史がおざなりに扱われる結果を招くという証明でもある。

            また、戦争を風化させる土壌として、語り伝えていく努力を教師自身が知識を獲得していない、知るための努力を放棄しているという問題もある。

            戦争があたかもアフガンやイラクなど遠い国々での出来事であるかのようなマスメディアの姿勢にも問題がある。

            昨年のアメリカの極秘裏の核実験にしても、現在のイランの核開発をめぐるアメリカを中心とした国々とイランの対立。イランへの経済制裁。ホルムズ海峡の封鎖など、きな臭いことばかりが起きているにも関わらず、他人事のようにそれをながめているのが日本人の現在の姿である。

            震災も怖いが、戦争はもっと怖い。
            どちらも静かにやってくるのだ。

            事実をどう認識し、無知であることの愚かさに気付いていくのか。そして、事実をどう次の世代に伝えていくのか、50歳以上の世代の抱える責任は重い、自戒をこめてそう思う。
             

            私がシュールレアリスムだ  救世主ダリ

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              絵を描くことは苦手なのだが、美術館に行ったり、画集を鑑賞したりするのは好きである。

              いま、よく見ているのはサルバドール・ダリの画集である。
              サルバドールとは「救世主」という意味である。
              シュールな絵の中にあって、ダリの絵は本質をとらえているような気がして好きである。

              一番はと聞かれても、その時の気分でこれと答えられないのであるが、1943年制作の「アメリカの詩」が今は自分の心に共鳴している。
              ここに絵を添付していないので、うまく伝えられないが、背景にある時計の下で、やわらかくしおれたような形をしているのがアフリカ大陸である。
              よく目を凝らしてみると、そのアフリカ大陸が涙を流している。

              これは、ダリがアメリカ滞在中に制作したものであり、差別に苦しむアフリカ系アメリカ人の悲しみとされている。

              また、コカコーラを絵の中に取り入れた世界初の作品としても有名である。

              「肩の上で平衡をとる2本の仔羊のあばら肉のあるガラ」も個人的には印象深い作品である。
              ガラとはダリの才能を愛した生涯唯一の女神といわれている。

              ダリは父親から性病の恐ろしさを教えられ、女性恐怖症であったのは有名は話であるが、その恐怖を取り去ったのがガラである。

              晩年の「18メートル離れるとリンカーン大統領の肖像に変容する海を見つめる裸のガラ」は2012年の現在の作品といっても通用するホノグラムや自動制御理論の専門家に力を借りて作った傑作である。

              最後の最後までダリは異彩を放った天才であったと思う。
               

              ワイズクラックのオンパレード

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                たったいま、2012年の第10回「このミステリーがすごい大賞!」の大賞受賞作である、法坂一広の「弁護士探偵物語 天使の分け前」を読み終えた。

                巻末についている選考委員の書評では今回ほど受賞作を決定するにあたって紛糾した年はないそうである。

                内容はハードボイルド。嫌いではないが、いかんせん、どの書評家ものべているようにワイズクラックのオンパレードで、緊迫感がある場面でも多用されているので、鬱陶しい印象はぬぐえない。

                書き出しから、事件の本筋への流れはうまいと感じた。

                しかし、デニス・ルヘインのパトリック・アンジーシリーズなどを読んでしまっていると、ハードボイルドとしての質も何だかこじんまりとしていて、迫力に欠ける。もっとも、日本の福岡あたりが舞台だとこれでも精一杯なんだろうが・・・

                悪人つまり犯人像も薄っぺらな小悪党にしか見えてこないのが残念である。

                多くの書評家の方の意見通り、今後の活躍に期待をするしかない。

                正直、大賞作としては物足りない完成度である。

                チャンドラーのパロディなのかどうかは、自分がチャンドラーを読んでいないので分からない。
                しかし、背景に流れるジャズも、個人的にはパーカーもデスモンドも好きなので、全然話の流れとか関係ない部分で楽しめたが、一般的な若い読者にはどうなのかという疑問も少なからずある。

                この本を読んでいるなかで僕にはデスモンドのアルト・サックスは胸に響いてこなかった。
                 

                呆れた文科省の言いなりになっていいのか

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                  僕は一教育に携わる者として、いまとても腹を立てている。
                  文科省は年度内までに放射線や放射能の授業を必ず実施するようにと通達を出した。
                  横浜市はそれを受け、各学校一名の職員を招集し、研修会を実施した。
                  そして、各校において、その研修をうけてのどんな授業を行うかの研修会が開かれた。

                  その内容は偏向そのものである。
                  そもそも、放射線や放射能の授業を義務付けた背景は昨年の3.11によるフクシマ原発のメルトダウンにいよる放射能の拡散の人体への影響が直接の要因ではないか。
                  ところが、フクシマの話題にはふれるなという但し書きまでついている。

                  全く愚かしい。

                  文科省の主催する「原子力教育支援情報提供サイト あとみん」では、原子力の安全利用の立場から偏ったコンテンツのてんこ盛りで、小中高の教師および子供が自由に閲覧できる仕組みになっている。
                  当然、都合の悪い原発事故などの記述は削除である。

                  こういう欺瞞に満ちた文科省のつくるお仕着せの資料を用いて学習することは、子供の命と安全を守らねばならない立場の私たちの職責を放棄する蛮行である。

                  なぜ、内容を見て抗議できないのか?

                  自然界からも放射線は出ている。レントゲンなどで役に立っている面もある。
                  そんな次元と原発のメルトダウンをいっしょくたにしているところに腹が立つのだ。

                  先日。横浜では「脱原発世界会議」が行われ、2日間で約15000人の方が世界各国から集まった、
                  インターネットを通じての参加者を含めると膨大な数である。
                  その中で、水爆被曝をうけた第5福竜丸の乗組員である大石又七さんの講演もあった。

                  そういう時代の流れの中で、その流れに竿をさす教育を行うことに何の意味があるのだろうか。
                  そういう感覚すらない同僚たちの感度の低さにもいら立ちや腹立たしさを感じる。
                   

                  ヒバクシャになったイラク帰還兵

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                    「ヒバクシャになったイラク帰還兵」を読み終えた。
                    アメリカが湾岸戦争およびイラク戦争で使用した劣化ウラン弾による被害の実相はなかなかメディアを通じて伝わってこない。

                    劣化ウラン弾は「核のゴミ」が原料である。

                    国連の人権小委員会で1996年に劣化ウラン兵器を無差別兵器と同様に、国際人道上使用することが違法であるという決議を採択したのだが、無視されたままだ。

                    その背景には国連に影響力をもつアメリカの隠蔽工作および脅しがあることは間違いないといわれている。

                    アメリカは機密文書から60年以上も前から劣化ウランの危険性を熟知していたことが明らかになった。
                    しかも、1974年から1989年まで、ラットなどの動物実験を通して劣化ウランの有毒性を確認している。1991年には、アメリカの核研究機関であるロス・アラモス国立研究所が「劣化ウランは環境への衝撃度は大きいが、戦場では有効な兵器であり使い続けるべきである。」と述べている。

                    そういう危険度が分かっていながら、イラクに派兵した兵士には任務の士気がさがることをおそれ、何の危険性も事前に告知しなかった。

                    いわんや戦場の舞台となったイラクの民間人の命など虫けらほどにも考えていなかったということが暴露されたのである。

                    自衛隊が派遣されたサマワも劣化ウランで汚染された地域である。

                    アメリカに絶対に従うかたちで現地に赴いた自衛隊員の中にはもしかしたら、帰国後、原因の不明な体調不良に悩まされている者がいても不思議ではない。しかし、勇気あるアメリカ帰還兵のように、ものを言える社会になっていないのが我が国の実相なのだ。

                    なぜなら、科学的な根拠を示すことが難しいからである。しかも、WHOすら、事実を伝えていないのが現実である。
                    劣化ウランの被害は戦後も長期的に影響を及ぼすという報告書をキース・ペッパード博士がまとめたのであるが、WHOの上層部は何らかの理由で握りつぶしたのである。
                    WHOが根拠を示せないのに、科学的根拠がないから、劣化ウランとイラク帰還兵の体調不良や生まれてきた子供の先天的異常、イラクでの白血病や無脳性などの奇形児の出産の爆発的な増加は劣化ウランとは関係ないというアメリカの主張は欺瞞であり、全くもって非人道的であり、犯罪ですらある。

                    大量破壊兵器ありきでイラクに乗り込んでいき、民間人を殺し、永久的にがんで苦しむ国にしたアメリカこそ、大量破壊の核兵器を使用した張本人ではないか。
                    なぜ、国際法上の違法行為として裁かれないのか?

                    田中慎弥のエッセイを読む

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                      小さな旗 田中慎弥  2011年4月11日掲載

                       今日が最後なので何かそれらしいことを書こうと思っていたところへ、東北・関東を襲う地震。作家なのだから、世の中の重大な出来事には背を向けて、こんな非常時になんと不謹慎な、と眉をひそめられるようなことを書かなくてはならない筈(はず)だが、テレビに映し出される、もの言わぬ地震と津波の圧倒的な威力を見ていると、自分が何かを言ったり書いたりしたところでなんの意味もないのではないか、と感じてしまう。
                       
                       ここで言う、なんの意味もない、というのは、自分が災害に対して何も出来ない、ということだけではない。私は普段、生きるため、自分のためだけに小説を書いている。収入を得るため、自分自身を解放するため、と言ってもいい。その、自分のための、自分なりに力をこめて書いた小説は、災害ほどには人に影響を与えない、と思ってしまうのだ。そんなことは当たり前だが、例えば被災者が読んで、ほんのわずかな時間だけでも苦しみを忘れるような小説が、書けないものか。災害とは全く無縁の爽やかで美しい作品でもいいし、逆に徹底的に悲惨な人間の姿でもいいし、でなければホラーで怖がらせるか、避難所で読むのがはばかられるドロドロの不倫劇で引きずり回すか。
                       
                       しかし私はいまのところ、被災した人だろうがそうでない人だろうが、多くの読者を獲得出来るような小説を書けていない。厳しい現実を直接反映させた問題提起型の小説は、現実そのものの前では圧(お)し潰(つぶ)されてしまう。現実を凌駕(りょうが)するか、現実から百歩も千歩もあとずさり、どんどん遠ざかり、逃げ続けるか。どちらにしろコースを一周すれば同じ地点に出る筈だ。そこにしか、小説という小さな旗は立てられない。勿論(もちろん)そのコースは、自分で切り開くしかない。
                       とりとめのない連載だったのでとりとめのないまま終わることにする。担当記者に感謝。
                       

                      今回の芥川賞を受賞し、不遜な態度でインタビューに応じた田中氏の朝日新聞の山口版で担当していたエッセイの最終話を紹介した。
                      赤字で拡大した部分を読めば、彼という人間がそのまま反映されていると思う。
                      災害と小説を同じ土俵で語ることが不遜であるし、逆に小説は小さな旗であるとも思わない。
                      重松清の峠うどん物語でも記したが、小説の力を信じている。
                      田中氏は自虐的にもなるようだ。端的にいえば、多くの読者を獲得する内容が書けていないだけの話である。
                      批判するだけでは嫌なので、書店に行って彼の問題作といわれる「犬と鴉」の表題作を読んだ。
                      率直に言って、彼は純文学というものを勘違いしている。
                      比喩を多用れば、高尚なもの、文学的な価値の高いものになるとでも思っているのか?
                      読んでいて、途中からつまらなくなって読むのをやめた。

                      悲しみほど甘い蜜はない。という祖母の繰り返しの言葉を受けて、戦争の中から甘い蜜である悲しみを見つけようとする男の物語である。ネタばれになるので相当簡略化して書いた。

                      言いたいことはわかる。人の不幸のほうが幸福以上に関心を呼び、人が群がるという比喩であろう。
                      ワイドショーがその好例である。一億総ワイドショー化。

                      しかしだ。状況設定が読者の共感をまず呼ばないだろう。
                      戦争や災害の被害者は「ふざけるな」と言うだろう。不快感を抱くであろう。
                      だから、純文学を勘違いしているといっているのだ。
                      作家だから、非常時に不謹慎なものを書かなければならないはずという言葉が彼の物書きとしての姿勢を象徴している。
                      それは、彼自身のパーソナリティの問題である。人間の資質と言い換えてもいい。
                      作家だからではない。作家である前に人間である。素直に甚大な災害を目の前にした普遍的な人間の物語を虚構の中で創作するのが職業人としての作家の存在理由ではないか。

                      脚本家 山田太一の「岸辺のアルバム」がその好例である。

                      文学は技巧ではない。ノーベル文学賞を受賞したクッツェーは難解な言葉を使わずして、簡潔な文体ながら、非常に密度の高い、現代的なテーマの文学を創出している。

                      あざとい比喩の多用で、自分は作家だからこういう表現もできるのだよという書きぶりには辟易とする。だから、彼はおそらく性格的な面からして小説に力を与えられる作家にはなりえないと私は断言する。読者をなめないでほしい。

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