悲しさで胸が痛い・・・

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    同僚から借りた一冊の絵本。 「わたしのいもうと」。
    作者は以前、このブログでも紹介したことのある、「ミサコの被爆ピアノ」の著者松谷みよ子さんです。
    声高に反戦平和を唱えるのではなく、静かな語り口の中に平和の重さ、尊さを語りかけてくれる作家です。
    しかし。この絵本は主題が「いじめ」です。
    とにかく読んでください。
    小学初級からと裏表紙には記してありますが、中学生にも高校生にも、読んでほしい絵本です。
    「差別こそが戦争への道を切り拓くのではないか。」
    この小説のモデルとなった少女のお姉さんからの一通の手紙に、松谷さんは心を打たれます。いじめの問題は簡単には解決しない問題ですが、だから、何もしないのではなく、こうした一冊の絵本を通じて何かを感じ取ることが大切なのではないかと思います。

    罪と罰読了  深い余韻と感銘を残して・・・

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      超大作「罪と罰」を静かに読み終えました。
      今、心にあるのは深い余韻と感銘です。
      特にラスト。ソーニャの足元に泣きながらひざまずくシーン。
      強い自己理念の化け物であるラスコーリニコフが一人の人間に回帰していこうとするこの場面は、心にずしりと響きました。
      そのシーンを抜粋してみます。
      「二人は何か言おうと思ったが、何も言えなかった。涙が目にいっぱいたまっていた。二人とも蒼ざめて、痩せていた、だが、そのやつれた青白い顔にはもう新生活への更生、訪れようとする完全な復活の曙光が輝いていた。愛が二人をよみがえらせた。二人の心の中には互いに相手をよみがえらせる生命の限りない泉が秘められていたのだった。」

      人を罪に陥れていく大きな動機となるのが「人」そのものであると同時に、人を絶望や悔恨や精神的なことも含め「死」から救うのもまた「人」であるということを心に残していく書物です。

      異常な熱気に感染し・・・現代文学の最高峰!

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        「罪と罰」もいよいよ残すところ80ページ足らずというところまできました。本来なら読了した後に、ブログをとも考えていたのですが、9月に入ってからこれが2度目の書き込みという体たらくで、ある人からは「もう書きこまないんですか?」などといわれる始末。これではいけないと思い、いまキーボードをたたいています。
        「罪と罰」の訳者でもある工藤精一郎氏も語っておられるように、後編に入り、読み進めていけばいくほど、異常な熱気に感染し、一文一文に身動きが取れない状態になるという感覚を味わいました。20代の頃のほうがむしろ何も考えずにもう少しすらすら読めたような気がします。
        とにかく、殺人を犯したラスコーリニコフの独り言を含む、登場人物の会話文が多いので、非常に密度の濃い密室劇の舞台を見ているような錯覚に陥るほどです。そして、中でも予審判事のポルフィーリィとのやりとりはまさに推理小説を読んでいるくらいの迫力と構成です。
        一方で、愛と自己犠牲の人「ソーニャ」とのお互いの愛情を奥底に秘めた信仰に対する葛藤・対立。そして、殺人の告白を盗み聞き、自分が思いを寄せる妹に体の関係を迫るこの物語中最も悪の心にさいなまれているスヴィドリガイノフと妹ドゥーニャとの密室の中での対決など。
        この作品の中には余りにも多くの人間として考えさせられる要素が詰め込まれているといっても過言ではありません。
        ですから、決して読みにくくはないけれど、簡単にはページは繰れない。
        現代文学の最高峰の一冊であることにはまちがいがないのではないかと思います。それにしてもこの作品が書かれたのが今から140年前という事実に圧倒されます。「罪と罰」は21世紀の現代社会にこそあてはまる作品であると確信します。

        ご無沙汰しました・・・

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          いやはや、ご無沙汰してしまいました。今月初めての書き込みです。
          これだけ書き込みをさぼっていると、やはり悲しいくらいにアクセス数は減りますね。
          でもそんな中にあってもアクセスをしてくれた人には感謝しています。
          読書をしていなかったわけではなく、読んでいる本が実にヘビーであるということが大きな理由です。
          その本はドフトエフスキー「罪と罰」です。20年以上前に読んで以来の再読です。
          ところで、いま静かなドフトエフスキーブームというか新訳の「カラマーゾフの兄弟」が異常な売り上げを示していると今日付けの朝日新聞でも特集がくまれるほど話題になっています。「カラマーゾフの兄弟」も読んだことがありますが、正直上巻で断念してしまったという苦い思い出があります。その点「罪と罰」はまだ読みやすいと思います。
          しかし、作家の島田雅彦氏も指摘しているように、登場人物の多さに加え、名前がどれも似通っているために、はっきり言ってひとりひとりの人物をとらえるまでが時間がかかるということはあります。しかも上下巻通じて1000ページもあるので、読み応えは十分です。
          「罪と罰」を改めて再読しているなかで思ったことは、主人公の高利貸しの婆さんを殺害し、加えて予想外にもその場に居合わせた妹まで殺してしまう、主人公であるラスコーリニコフの苦悩や自分の罪を正当化する心象を語る場面などが、現代社会に生きる私たちひとりひとりの心に突き刺さってくるということです。
          次の文章をどう受け止めるか。重い課題です。
          「何十という命が、家庭が貧窮から、崩壊から、破滅から、堕落から、救われるのだ。それが老婆の金があればできるのだ。老婆を殺し、その金を奪うがいい。ただしその金を使って、全人類と公共の福祉に奉仕する。どうかね、何千という善行によってひとつのごみみたいな罪が消されると思うかね?一つの命を消すことによって、数千の命が腐敗と堕落から救われる。一つの死と百の命の交代。そんなことは算術の計算をするまでもなく明らかじゃないか?」

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