久々に絵本の話題でも・・・

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    最近、絵本について投稿していなかったので、久しぶりにお薦めの絵本を3つ紹介したいと思います。
    今年刊行されたものばかりではないので、あしからず・・・
    まずひとつめは2004年に刊行されて読者の話題をさらった、「てん」。
    作者はピーターレイノルズ。訳は谷川俊太郎。
    お絵かきの大嫌いな少年ワシテ。ワシテが苦し紛れに描いた「・」(ちっぽけなてんひとつ)
    この・しか描かれていない画用紙にサインしてと先生は語る。その後で起こるワシテの生き方を変える出来事とは・・・
    可能性の芽はどこにでもあるということを教えてくれる元気の出る絵本です。
    2冊目は、「せかいのこどもたちのはなし」はがぬけたらどうするの?
    この本は久々に再発刊されたほしくてほしくてたまらなかった一冊。
    乳歯が抜けたときにどうしているのかを世界中の64の地域から集めた、おもしろ比較文化絵本です。
    屋根の上に投げる国。鶏小屋に放り込む国など。読んでいて飽きない絵本です。
    最後は、私の一番お気に入りに絵本作家、ウィーズナー「漂流物」。正真正銘の絵本です。語りはありません。絵を見て自分の想像力が試されるウィーズナーの本領発揮の一冊です。

    「舌読」 ハンセン病患者の社会との接点

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      毎日新聞社発刊による一冊の写真集ここに人間あり」、サブタイトルは写真で見るハンセン病の39年を読みました。
      胸が締め付けられる思いがします。前回にも書いた部落差別問題同様に、日本の政府の取ってきたハンセン病患者に対する90年間にも及ぶ差別・偏見の施策により、「強制隔離」「断種(堕胎)」を患者に強いることで、2万3000人以上の人々の尊い人生を台無しにしてきました。
      1996年にやっと国はそのあやまちを認め、「らい予防法」を廃止したものの、現在でも3000人以上の人々が苦しい療養生活を送っています。
      写真集を見ていて、一番心が締め付けられたのは、ハンセン病によって、視覚障害及び上肢・下肢に障害が残った高齢の患者さんが、残された唯一の感覚器官である「舌」で点字本を読んでいる姿でした。つまり「舌読」です。
      なぜなら、隔離された生活を送っている患者さんにとって、社会との唯一の接点が読書
      だったからです。
      「本を読むことはいきることでもあった。」とキャプションのついた一枚の写真からは、隔離された生活の苦しさが滲んできます。あまりに夢中になって舌でよむあまりに、舌が切れて出血することも多くあったと記されています。
      過酷な運命にありながらも、読書を通じて何かを学ぼうとするその姿に、人間の尊厳を感じます。
      自分はこの写真集を読むまで、恥ずかしながら「ハンセン病」に対する理解はほとんどなかったといってもよいです。部落差別の問題でもふれましたが、こういったことが知らされないような社会の仕組みにこそ大きな問題があるような気がします。
      無知こそ恐ろしいことはない。強くそう思います。他者への想像力を欠いた社会からは何も温かなものは生まれないと思います。そして、温かさのない国など「美しい国」になるわけがない。

      考えることが多すぎて・・・

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        本は読んでいるのですが、なかなか記事を投稿する気分になれない、何となくけだるい毎日を送っています。
        逆に言えば、人権について考えることが多くあり、書きたいことが整理しきれないと言ったほうがよいかもしれません。
        前回紹介した「放送禁止歌」のなかの岡林信康の「手紙」ですが、現代書館から出版されている「部落差別と人権」によれば、実話をもとに作られた歌だということが分かります。別名「播州挽歌」。
        「手紙」とは両親へあてた「遺書」がもとになっているのです。
        遺書の中の一節を紹介します。
        身分の差別のない世の中なら、私も好きな人とお店がもて幸福なひと時を過ごせたかも知れません。この世の中に、どれほど、結婚・就職に敗れた者がいるかも知れません。この世を去った者も・・・いろいろなことを考えているうちに・・・ 思えば、涙と共に一生結婚しないことに決めました。(中略)
        こんなに落胆したのは今初めてです。今一度、彼と話し合うつもりでいます。
        彼も泣いていました。ともに泣いて別れるのが私たちの運命でしょう。
        いやになればこの世を去ります。へんな暗い手紙になりましたが、書かずにはおられなかったのです。  お父さま、お母さま     K子
        そして、K子さんは命を自らの手で絶ったのです。これは20年前の出来事ですが、関係ないで済む話でしょうか。こういった部落差別のことを知らされないままに生きている人、つまり教育されていない現状は今でもあるのではないでしょうか。
        それは次回書こうと思っている「ハンセン病」患者に対しての国の施策についても同様にいえると思います。いま、格差社会と声高に叫んでいるけれど、そんなものは当の昔からあったのであり、その一番の犠牲者が部落にすむ人であり、ハンセン病患者でありという構図にあまりにも多くの国民が無関心であったのではないかと自戒をこめて思います。

        放送禁止歌とは何か?「手紙」から考えること・・・

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          7・8月に読んだ本の中で、今でも心の中に澱のようにひっかかっている本があります。
          「世界が思考停止をする前に」を書いた森達也氏の演出したルポルタージュのきっかけからその番組の顛末を描いた「放送禁止歌」という本です。
          放送禁止の歌があるということは知ってはいました。それには、きちんとした法規制があるのだろうということも・・・
          ところが厳密には、放送禁止歌という言い方すら存在しない。正しくは「要注意歌謡曲指定制度」であり、その理論的な根拠は民法連が策定した18章143項目からなる「放送基準」の第8章「表現上の配慮」にある。
          この「放送基準」は強制力のない内規である。しかし、この背景にあるのが電波法と放送法という2つの法律である。しかし、よくよく考えてみるとこの2つの法律と表現の自由を掲げた憲法21条はぶつかるという矛盾をかかえている。
          しかも、要注意歌謡曲、いやあえて放送禁止歌といおう。そんなものは10年前に消滅していた。ではなぜ規制だけが残るのか?
          特にこの本で取り上げられた歌の中でも核となる超A級放送禁止歌は岡林信康の「手紙」と赤い鳥の「竹田の子守唄」。この2つの歌が抱えているものは部落差別という大きな問題。そこで、メディアの人間はこう考える。大きな問題だからきっと解放同盟あたりから抗議がくるだろう。ならばややこしいいざこざは避けて、とりあえす禁止しよう。つまり、思考を停止させたままで、何が問題であるかすら検証しないという無責任さ・怠慢さ。そこに森氏は小さな風穴を開けようとしている。一人称不在の横並び同調主義の思考停止のメディアに対して・・・
          個人的なことを書きますが、自分はひょんなことからこの岡林の「手紙」のCDをもっています。そして、いまこの本をきっかけにして改めて部落差別という人権問題を様々な本を通して学びなおしています。
          その中から浮かび上がってくる職業・結婚差別の凄惨さには心を打ち砕かれます。

          最後に「手紙」の詩をのせます。
          わたしのすきなみつるさんは
          おじいさんから お店をもらい
          二人一緒に暮らすんだと 嬉しそうに話してたけど
          私と一緒になるのだったら
          お店をゆずらないと言われたの
          お店をゆずらないと言われたの

          私は彼の幸せのため
          身を引こうと思っています
          二人一緒になれないのなら 死のうとまで彼は言った
          だからすべてをあげたこと
          悔やんではいない 別れても
          悔やんではいない 別れても

          もしも差別がなかったら
          好きな人とお店がもてた
          部落に生まれたそのことの どこが悪い 何が違う
          暗い手紙になりました
          だけど 私は書きたかった
          だけども 私は書きたかった

          スパルタの狐

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            久しぶりにミステリーを読みました。気鋭の作家による東京創元社のミステリ・フロンティアシリーズの一冊、「少女には向かない職業」です。作家は桜庭一樹
            書き出しの「中学2年生の1年間で、あたし 大西 葵13歳は人をふたり殺した。」にまずノックダウン。一気読みしました。
            読後の感想は、ミステリーの出来としては凡庸であるにしろ、ところどころにはっとさせるものがありました。
            例えばタイトルにも挙げた「スパルタの狐」というエピソードを警察官が主人公の葵に語るシーン。
            このときはまだ、ことのいきさつをこの警察官は知らないのですが・・・
            「スパルタの狐って言葉知ってるか。(中略)この言葉は古代のギリシャにあった、スパルタという都市国家の教育制度からきているんだ。この国は、とても若者には厳しくてね。勉強もだけど、戒律や道徳教育それはそれは厳しかった。
            そのスパルタで、ある夜君くらいの年の子どもが狐の子を一匹盗んでしまった。出来心かもしれないし、貧しかったからかもしれないし、確信犯かもしれない。(中略)盗んだことがばれると大変なので、子どもは洋服の下に狐を隠して、夜道を急いだ。すると、狐の子は苦しくて、子どものお腹に噛み付いた。それでも子どもは我慢して歩き続けた。狐の子はますます必死に噛み付いてきた。」
            「それで、どうなったの?」
            「子どもは我慢しすぎて死んでしまった。」
            我慢と秘密が同居する罪はその子を滅ぼす。「スパルタの狐」このエピソードこそが本書を物語っています。凡庸と書きましたが、読んでつまらないという作品では決してありません。ただし、ミステリーに目の肥えた人は反論するかもしれませんが・・・
            閉塞感をかかえた少女の心情はうまく描かれていると思います。

            現実よ 物語の力に ひれ伏せ!

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              タイトルに書いたのは私の好きな作家の一人である「GO」で直木賞を受賞した、金城一紀の書き下ろし最新小説集「映画篇」の帯の惹句です。小説のタイトルはいまいちですが、ここに書かれている5つの作品はどれも心に残るいい作品です。単純にいいと言い切れる本はあるようでいてなかなかないもの。
              この作品集の縦軸は、「ローマの休日」です。あのオードリーヘップバーンの素敵な映画です。
              そして、もうひとつは全ての作品ではないにしろ、製薬会社の治験による薬害問題というシリアスな問題も含まれています。
              5つもあるとあたりはずれがあるものですが、この作品集は5つともお薦めです。まずは騙されたと思って読んでください。
              特に、ひとつひとつの作品が微妙に連関する展開は伊坂幸太郎の作品とも相通ずるものがあり、ラッシュライフほどのはめ絵パズル的要素まではいかなくても、伊坂ファンの人ならきっと気に入ると思いますよ。
              今年刊行された伊坂の「フィッシュストーリー」以上の余韻を読後に残してくれました。小説のおもしろさ、物語の力を堪能させてくれる本当に読書好きな人にはうってつけの一冊です。
              最後に5つの作品のタイトルは映画からとられています。読み終わったらその映画も見たくなること間違いなし!

              犬は嫌いですが・・・

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                本は読んでいるのですが、また書きたいことは山ほどあるのですが、書き込む気力がないのは猛暑による夏ばてでしょうか?
                ところで、唐突ではありますが、私は犬が嫌いです。それは幼少期、特に赤ちゃん時代にいきなりおなかをひっかかれたり、かまれたりといった経験があり、心理的なトラウマになっているからです。
                そういったことを差し引いても「盲導犬クイールの一生」は心に残りましたし、今回読んだ「障害犬タローの毎日」も静かに心に訴えかけてくるものがありました。
                原因不明の病のための四肢を失ったタロー。しかも尻尾の耳のない状態。
                そのタローを拾い育てたおじいさんとおじいさんの亡き後親代わりとなって育てた福岡の獣医師の小森さんとのやりとりを読むと温かな気分になります。
                現在、飼い主から見放され、保健所にて強制的な死を迎えている犬が全国で16万匹。
                これは1年間での数字です。この数にも驚かされますが、一方でその運命を免れたタローのような奇跡の犬もいる。
                つまりペットブームといわれながら、その生き死にという大きな運命が人間の手にゆだねられているということです。そして、生きるほうの犬のほうが少ないという現実に人間の傲慢さを垣間見る気がします。
                読んでいて、育ての親となった小森さんの次の言葉が心にしみました。
                「すべての脚を失いながらも這ってでも自力で動き回ろうとする太郎は、自分の現実をそのまま受け入れ、自分にとっての最高の状態をつくろうとする。(中略)
                 自分とほかの猫や犬と比べて、落ち込んだり、卑屈になったりすることがない。」

                タローは犬ではありますが、その生き方は今を生きる私たち人間に大切なものは何かを教えてくれているような気もします。
                写真もとてもいいのいで、多くの子供たちに読んでほしい本です。

                読書の夏  8月の幕開けは「太陽と毒ぐも」

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                  8月に入り、我が友達は国内外を問わず旅行を愉しんでいるようです。
                  私は、読書の夏を愉しんでいます。
                  今、数冊をかけもちで読んでいますが、今日読み終えたのが角田光代さんの「太陽と毒ぐも」です。角田さんといえば、自分の一番のお気に入りは「キッドナップツアー」ですが、恋愛小説でもいい味出していると思います。
                  「太陽と毒ぐも」は、本人いわく「ばっかじゃないのこいつら」と思えるカップルのささいな諍いをテーマにした短編集ですが、恋愛を経験した人なら、読んでいて「分かる分かる」という微妙は男女の差異の描写の巧みさにうなづくことうけあいです。
                  僕がこの短編集で気に入ったのは、何でも、たとえばはじめてディズニーランドに行った日を「ディズニーランド記念日」とか決めたがる彼女と、そんなのどうでもいいじゃんよと仕事に追われて安らぎたいとひたすら願う彼氏の話の「昨日・今日・明日」。男と
                  女のつながりに100%をもとめたいと願いながらも、100%はありえないと逡巡しながら巨人(野球の)馬鹿の彼氏を受け入れていく「100%」でした。
                  恋愛のドキドキ感なんて、出会いの当初は別にしても年月が経てば立つほどドラマティックなものではなくなり、正直惰性に流されつつもだらだらと続いていく感じをとてもうまく表現していると思います。
                  そして、惰性の流れの中で、惰性を断ち切るかのように「昨日・今日・明日」の主人公である彼氏のキクちゃんが心ならずも「一緒に暮らそっか」という言葉で締めくくる。
                  そういうことって現実の世界で往々にしてあるのではないかなと思いました。

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