大きな反響・・・  「青い鳥」

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    29日に記した重松清の新刊青い鳥」の反響は思いのほか大きく、一日で550アクセスという過去最高を記録しました。
    アクセスしてくださったみなさん、ありがとう。
    自分が「青い鳥」に惹かれる理由として、主人公の村内先生と著者の重松清がだぶるということがあります。
    それは、以前このブログで紹介した理論社の寄り道パンセシリーズの「みんなのなやみ2」のなかで、重松清はこう語っているのです。
    相談者は知能の面で障害をもった妹の将来を憂える真帆さん(仮名)という高校生に対する答えのなかにあります。
    「真帆さんの相談とは全然次元の違う話になるけれど、僕にはうまれつき吃音、しゃべるときにどもるという癖がある。話そうと思っても口から言葉がうまくでてこなくて、それで人前で話すのが嫌で・・・(中略)
    この「うまくしゃべれない」というのが僕の最大のコンプレックスだった。
    (中略)
    そして、重松清はこの真帆さんの抱えるなやみに、延々とページをさいて、本当に真摯に自分の内面から大切な言葉だけを搾り出してこたえているのです。
    それでも、僕のいうことは何の役にも立たない綺麗ごとかもしれないと、ことわっている。
    その姿と「青い鳥」の村内先生はオーバーラップします。
    「正しいことを言うのではなく、大切なことを伝えたい。」そういうシーンが小説の中にでてきますが、それは、みんなのなやみの中で、一人ひとりの相談者のために、真摯に真剣に答える重松清そのものの姿ではないかと思えてくるのです。
    だから、これから重松清を読もうとする人には「青い鳥」を僕は推薦します。
    言葉の量は少なくても大切な言葉がたくさん溢れている小説だから・・・

    個人的な話ですが・・・ 文句なし!上半期の本NO.1決定

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      もうすぐで7月も終わりですね。この7月までにおよそ50冊の本を読んできましたが、文句なしのNO.1の本に出逢えました。
      それは、重松清「青い鳥」です。「カシオペアの丘で」に人気が集中していますが、自分にとっては断然「青い鳥」のほうが心に残りました。読み終わった直後でもいつもそばにおいて好きな主人公の言葉などを読み返しています。
      「青い鳥」の設定は、これもある意味重松清が得意の「ナイフ」「エイジ」「卒業」で示した学校が舞台となっています。しかし、長編ではなく連作集です。
      「哀愁的東京」もそうですが、重松清の魅力が最大限に発揮されるのは連作集ではないかと個人的には思います。
      話を「青い鳥」に戻します。主人公は、中学校を点々とする非常勤講師の村内先生。
      村内先生は、吃音のため、うまくしゃべることができないというハンデをもっています。その先生といじめ、父親の自殺、家庭での虐待などといった重たい十字架を背負って生きている生徒との心の交流が描かれています。
      あまり語りすぎると感動も薄いものになってしまうので、やめておきますが、心に響いた村内先生の言葉をひとつだけ紹介します。
      「うまく、しゃべれないっていうのは、つらいんだ。自分の思いが。伝えられないっていうのは、ひとりぼっちになるって。ことなんだ。言葉が。つっかえなくても。自分の思いが。伝えられなくて、わかってもらえなくて。誰とも。つながっていないと思う。子はひとりぼっちなんだよ。やっぱり。
       でもなあ。ひとりぼっちが二人いれば、それはもう、ひとりぼっちじゃないんじゃないかって、先生はおもうんだよな。先生は、ひとりぼっちの。子の。そばにいる、もうひとりのひとりぼっちになりたいんだ。だから、先生は先生をやってるんだ。」
      まだまだ、心に響く言葉はたくさんあります。その言葉の響きは染み入るように心にはいってくるものばかりです。是非是非読んでほしい一冊です。
      余談ですが、「ハンカチ」というタイトルの連作集のひとつめを通勤電車の車内で読んでいたのですが、、ラストシーンでこらえきれずぼろぼろ泣けてきてしまい、周囲の人から怪訝な顔で見つめられてしまいました・・・

      久々の熱いライブ盤  BOSSの魂の叫びを聞け!

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        個人的な趣味が反映していますが、久々に熱いライブ盤に出会いました。
        BOSSことBRUCE SPRINGSTEENLIVE IN DUBLINです。
        中でも、胸に迫る歌詞はMRS.McGRATH(ミセス・マクグラス)です。
        この歌はスペイン独立戦争が背景となったアイルランドの伝統歌で、そこで歌われている息子を英国軍に徴兵された(当時アイルランドは英国の一部)母親の嘆きは、スプリングスティーンの母国つまり、BORN IN THE USAでは現在進行形の話でもあるのです。
        「ミセス マクグラス」と軍曹は言った。
        「息子のテッドを兵士にしたくないですか。紺色の上着に、大きな三角帽、ミセス・マクグラス、そうお望みになりませんか。」
        ミセス・マクグラスは海辺に住んでいた。あれから7年月日は流れ、船が湾に入ってくるのを彼女は見た。遠くから息子を乗せて。
        「船長さん、どこへ行っていたんですか。地中海を航海してきたんですか。
        息子のテッドについて何か知らせはありますか。生きていますか、死んでいますか。」
        その時、両脚を失ったテッドがおりてきた。脚の代わりに二本の木の棒。
        彼女は彼に何度もキスをして言った。
        「まあ、どうしたのテッド、おまえなの、酔っ払って、目が見えなかったの。
        二本の立派な脚を後においてきたとき、それとも、海の上を歩きすぎて
        脚が萎えてしまったの」
        「酔っ払ってもいなかったし、目が見えなかったわけでもない。
        二本の立派な脚を後においてきたとき、大砲の弾が、5月5日
        僕の二本の立派な脚を吹き飛ばしたんだ。」(中略)
        「私は言いたい。全ての外国との戦争は、血と母の苦痛の上に成り立っている。私がほしいのは、昔のままの息子。アメリカの王でもないし、海軍の指揮官でもない。」
        ブッシュ大統領にBOSSの魂の叫び声は届かないのだろうか?
        日本では終戦の暑い夏がもうすぐで訪れますが、世界では・・・

        一番大切なものとは意志の力

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          かねてから読みたいと思っていた、梨木香歩さんの「西の魔女が死んだ」を読みました。
          中でも印象的だったのが、西の魔女こと、主人公の少女「まい」のおばあちゃんから、まいへの次の言葉。
          「悪魔を防ぐためにも、魔女になるためにも、一番大切なのは意志の力。自分で決める力、自分で決めたことをやり遂げる力です。・・・」そして、人は死んだらどうなるのかに対するおばあちゃんの答えにも深い感銘を覚えました。
          そして、ラストのおばあちゃんからまいへ贈られたガラスに書かれた伝言。
          「ニシノマジョカラ ヒガシノマジョ ヘ
           オバアチャンノ タマシイ ダッシュツ ダイセイコウ」
          を読んだとき、これほどまでに死の余韻が鮮やかに輝いている小説はないなあと感じました。特に中高生に読んでほしいお薦めの一冊です。

          ラビアータを探せ! 爽やか冒険紀行

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            久々に読後が爽やかな冒険紀行文を読みました。
            タイトルは「アフリカにょろり旅」。著者は東大の海洋研究所の研究員。
            下った指令は、全世界に生息するウナギ18種類中、唯一いまだに採集されていない種「ラビアータ」を捕獲すること。頼みの綱の教授は途中で帰国し、残された二人の研究員が幻のウナギをもとめての旅は読んでいて、興味津津でした。地雷原のモザンビークの海岸線で何も知らず釣り糸を垂れ、うんこが40センチメートルも積み重なった水のないトイレの臭さにのたうち、50度を超える猛暑にダウンしながらなど。
            立派な冒険譚になっていました。
            この種のルポというか、冒険譚の中で一番好きなのは世界のトイレを見て回る「東方見便録」がピカイチですが、いやはやこの本もなかなかいい線いってますよ。
            久々に途中で大声を出して笑ってしまいました。
            しかし、日本で土用の丑の日なんていってみんなウナギ食べてますが、いやはや奥が深いですよ。「ニホンウナギは、新月の夜、マリアナの海底の山で産卵する」このロマンチックな仮説は自然の圧倒的なスケールの大きさを私たちに教えてくれています。ウナギが一生に一度しか産卵しないこと、僕はこの本を読むまでは知りませんでした。しかも、その産卵場所が太平洋のど真ん中。真っ暗な新月の夜に・・・
            笑いの中にロマンのエキスもたっぷり入った好著です。

            おもしろかった・・・「新釈 走れメロス 他4篇」

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              今、全国の書店員の方々が注目している話題の作家、森見登美彦の最新刊「新釈 走れメロス 他4篇」を一気読みしました。
              一番面白かったのは表題作の走れメロスでした。
              メロスが芽野に、セリヌンティウスが芹名という京都の学生となって登場するこの友情談は原作の一気呵成読ませるエネルギーだけを継承して、さすがに二人ともが詭弁論部の論客であるという設定のもと一筋縄ではいかない友情論を展開していきます。
              特に気に入ったのは次の言葉。
              型にはめられた友情ばかりではないのだ。声高に、美しき友情を賞賛して甘ったるく助け合い、相擁しているばかりが友情ではない。そんな恥ずかしい友情は願い下げだ! 俺たちの友情はそんなものではない。俺たちの築き上げてきた繊細微妙な関係を、ありふれた型にはめられてたまるものか。クッキー焼くのとはわけがちがうのだ。」
              妙に説得力があるのはなぜでしょう?とにかく、いろいろ考えることなく読むことを単純に愉しむことのできる一冊です。「山月記」もお薦めです。

              被爆ピアノの奏でる平和の音

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                長年にわたり戦争を見つめてきた作家、松谷みよ子さんの最新の書き下ろし作品である「ミサコの被爆ピアノ」を読みました。
                1945年 8月6日。爆心地より1.8キロの地点で一台のアップライトピアノが被爆しました−の帯の言葉に引き寄せられたのです。
                なぜなら、先日このブログにて紹介した「きみはヒロシマを見たか」の中にも被爆ピアノが紹介されており、原爆資料館に寄贈されたピアノの修復にあたり、河合楽器のプロの調律師が尽力したことが記されています。
                鍵盤をたたくと、素人には聞き取れない音の震えがあることを察知した調律師は、ピアノを分解してみた。すると、爆風に飛び散ったガラス片が10数片ピアノの内部からこぼれ出た。ガラス片は人体を傷つけただけでなく、こんな形でも残り被爆地「ヒロシマの証」となったと綴られています。
                そして、すべてのガラス片の摘出手術を4日間昼夜を問わず行い、37年ぶりにそのピアノの音色が資料館に鳴り響いたと書かれたくだりを読んだとき、それこそが「平和の音」であることをしみじみ感じました。
                「ミサコの被爆ピアノ」は資料館とは別の運命をたどるお話ですが、絵本ですので大変読みやすく、このピアノは現在でも被爆ピアノのコンサートで、その音色を響かせているそうです。」一度、そのピアノが奏でる、そのピアノでしか奏でられない「平和の音」を聞いてみたいと素直に思います。

                歴史の流れを変えた23人の漁師たち

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                  辞任した久間大臣の「原爆投下しょうがない発言」が今でも心にひっかかっている自分がいます。
                  そんな思いをいながらふと書店に立ち寄り、心をとらえられたのが「ここが家だ」−ベン・シャーンの第五福竜丸という絵本です。
                  3月1日。マーシャル諸島のビキニ環礁で行われた水爆実験。
                  島に家を建ててすんでいた人はそこには住んでいられなくなり、周りの海のすべて汚された。広島型原爆の1000倍という破壊力をもつ爆弾。
                  そのまっただなかにいたのが第五福竜丸。
                  以下の文章が胸を打つ。
                  最初の日から、23人は気持ちが悪くなって、ご飯が食べられなかった。
                  2日目から、頭も痛くなり、めまいがして下痢もした。
                  3日目には顔が黒くなって、5日目には腹とか、首とかにデキモノが・・・
                  10日目になると髪の毛がぞろぞろとぬけだした。
                  空から降った、あの灰には生きもののからだを静かにこわしていく放射能がたっぷり入っていた。
                  みんなの、鼻の穴と耳の穴と、爪の間、へそのごまの中にも放射能はもぐりこんだ。
                  からだをじりじりと壊していく。
                  無線長だった久保山愛吉さんが息を引き取るとき、こういった。
                  「原水爆の被害者はわたしを最後にしてほしい。」
                  けれど、久保山さんのことを忘れようとじっと待っている人たちもいる。
                  久間大臣もその一人でしょう。だからこそ、余計に憤りを覚えます。

                  誰か一緒に生きてください

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                    「疾走」を読み終えたいま、胸を去来するものは、こんなに読み終えた後で「辛さ」が心に残るというか、辛さというものがそのままのかたちで、ぽっかりと心の中に穴を穿つ小説があっただろうかということです。
                    読み手人それぞれに受け取り方があるので、異論を唱える方がいるでしょうが、少なくとも自分は。読んだ後も心がひりひりしています。
                    「シュウジ」主人公の名。誰かにつながりたくて、つながりたくて懸命に生きる。けれども運命は無情にもそのつながりをことごとく絶っていく。
                    20章のエリの語りを静かに聞くシュウジ。
                    その語りとはシュウジと同じいやそれ以上の地獄の話。
                    そして、とつとつと語る。
                    「お前、大切なものがなくなったって、ほんと?」
                    「でも・・・俺はお前のこと、大切だった、ずっと。」
                    「・・・お前は大切な人だった、エリのこと大切だとずっと思ってた。」
                    「会えないから、大切だった。」
                    「会ってもっと大切になった。」
                    そして、二人ベッドの上。
                    「くっかないで・・・私に!」
                    「でも・・・そばにいて・・・お願い・・・」
                    強い「ひとり」と弱い「ふたり」が寝返りひとつでつながりそうな距離を隔てて、それぞれの涙を流し続ける。

                    「誰か一緒に生きてください。」シュウジの発した最後のメッセージ。
                    ケーキ屋のシャッターに細く小さく刻まれたメッセージ。
                    このメッセージこそがこの物語のすべてだと感じました。

                    シュウジがエリと分かれて新宿のまちを全力疾走するシーンがある。
                    そのシーンとダブったのは、池袋で通り魔事件を起こした権田 博。
                    以前このブログでも重松清のルポ「世紀末の隣人」の中で紹介しました。
                    しかし、権田が徹底的に他とのつながりを断ち切ろうとして殺人を犯したのに対して、シュウジが殺人を犯してしまうのは、ひととつながりたいという思いからです。
                    だからこそ、最終ページのクライマックスが心を激しく揺さぶるのでしょう。
                    でも、しばらくは小説を読みたい気分ではありません。
                    「疾走」は誰かに紹介する類の小説ではないような気がします。重松清のファンの中で「疾走」をベスト1に選ぶ人は少ないのではないかなと思います。選んでいる人がいたらごめんなさい。永遠に忘れられない作品であることは確かだとしても・・・

                    きみはヒロシマを見たか−三位一体の遺品−

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                      久間防衛省大臣が突然辞任を発表した。
                      当たり前といえば至極当たり前のことであるが、その辞任の弁にその人間のもつ本質が表れている思いが気がして憤りを感じた。
                      つまり辞任をしたのは被爆をした長崎・広島21万人の尊い命やその遺族に対しての申し訳なさからではなく、間近に迫った参議院選挙で安部政権をはじめとする自民党に迷惑をかけたくないというのであるから笑止千万に尽きる。
                      しかし、久間氏のような考えをもつ議員はある意味大勢いるということだろう。高級料亭で仲間内同士では「原爆はしかたないよ。」などと軽口をたたいて酒でも飲んでいるのだろう。
                      そういう志の低い、感性の鈍磨した人間を国会議員になどしてはいけない。
                      そんな怒りをもちながら、広島原爆資料館編纂「きみはヒロシマを見たか」を読んでいます。その中の三位一体の遺品は心にこたえます。
                      それぞれの一人息子を原爆で失った3人の母親の深い悲しみがしみこんでいる。いまも、血のシミ跡が残る肇君の学生服が、焼け焦げた栄一君の帽子が、ボロボロに破れた正之君のゲートルが、母親たちになりかわって無念の思いを伝えてくれている。
                      久間氏をはじめとする任命権者でもある安部総理。三位一体の遺品を見に、広島原爆資料館に明日にでも行って来てください。

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