緊急事態宣言下でのGWの過ごし方

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    JUGEMテーマ:日記・一般

    今日の午後、何気なくラジオをつけていたら、「この緊急事態宣言下の中どのように過ごしていますか?」という特集をやっていた。

    私の住んでいるのは神奈川県であり緊急事態宣言は発令されてはいないものの、東京都に準じるということでは同じくらいに警戒しないといけない状況である。

    どのように過ごすも何も、不要不急の外出を控えて自宅で静かに過ごしている。

    逆に言えば、なぜリスクを鑑みず夜の街に繰り出す人が多いということがネットニュースで取り上げられていたが、その神経が分からない。自分がかかるのは自業自得であると思うが、人を感染させてしまうかもということになぜ思いが至らないのだろうか?

    我慢ができないというが、家にいることがなぜ我慢なのか、理解不能である。

    コロナの影響で失業者8万人とも言われ、職を失っただけでなく、家賃も払えずにやむなくホームレスにという方も多いという現実の中、家にいて気ままに過ごせるだけで幸せなことだろう。

    他者への想像力の欠如に尽きる。

     

    今日の1日の過ごし方としては、楽器の練習、次回配信する動画の企画、準備。そして読書で過ごした。

    こういう事態に陥ると、趣味が多いということが最大の利点となる。

    クラシックコンサートや美術館の企画展にいけないのは残念であるが、仕方がない。

    病気になってしまったら元も子もない。

    明日も基本的に今日と同じ流れであろう。少し仕事もしたいとは思っている。

    家でできることはいろいろあって有意義である。意味もなく外出することにはなんのメリットもない。


    国民の生命よりも自分の支持率を大切にする右顧左眄中・安倍内閣の醜さ

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      JUGEMテーマ:ニュース

      先ほど、文化放送の番組を聞いていたら、コメンテーターとして数理社会学者である首都大学教授でもある宮台真司氏がこう語っていた。

      「やっている感だけ出して何も実行していない安倍政府は長期政権下のもと、本当の有事と言うものを経験してこなかったがために、今やコロナウイルスを前に無様な醜態を晒している。それでも40%の支持率があるのは、自分の頭で物事を考え、判断しようとしない若年層の依存体質にある。給付金にしても二転三転するのは、結局国民を見ているのではなく、ヤフコメなどに表出した批判によって自分の支持率の維持のみばかりに汲々としているからであり、まさにその右顧左眄する態度そのものに問題がある。」

      また、小西克哉氏は、日本の政治家は世襲制度のようになり、二世三世議員が多くの割合を占めている。こんな国は他に北朝鮮以外には存在しない。苦労しながら、実績を重ね叩き上げらた政治家が多い欧米とは全く異なっており、必然的に国民の辛さや痛みを理解し共感することができない体質がそこにある。

      ただし、そう言う国会議員に投票している国民にも責任があるとも宮台氏は言及している。

      その通りだと思う。

      傲岸不遜な物言いや数限りない失言を続けていながら大臣の座に居座っている麻生太郎などはその筆頭代表格であるが、彼を当選させ続けている福岡8区の選挙民も、今回の彼の姿を見てずっと当選させてきたことに痛みを感じないとすればそれはもう日本人としての資質の劣化であろう。

      今回の件で、今の政府は本当の国難に遭遇した時に何の機能も果たさない。言い換えれば、国民の生命を守る気がないことがはっきりした。マイナンバーカードを活用して10万円を給付するなど言っているが、カードの取得率はわずか13%であり、その理由は国民の政府への政治不信、信頼感の欠如だとも述べているのが印象的であった。

      「信頼感」。このキーワードは奇しくもこの前に台湾がコロナウイルスを徹底的に封じ込めた内容をこのブログ上で記した時に使った言葉であるが、今の日本の政府は信頼できない存在なのである。国民にとってこんな不幸なことはない。

      ニューヨーク州のクオモ知事は「責任は全て私が引き受けるので、不満の吐口は全て私にぶつけてくれ。」と述べた。

      一方、安倍晋三はイタリア人の質問に対して「責任を取れば済む問題ではない。」と、国のリーダーとしての責任を回避する答弁ではぐらかした。国家非常宣言を発出した責任があるのは明白ではないか。呆れてものが言えない。


      満開間近 桜にまつわる曲の中で何を選ぶか?

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        JUGEMテーマ:日記・一般

        先ほど、ラジオを聞いていたら、今年の東京での桜の満開は来週の23日ということである。

        例年より早い満開である。

        新型コロナウイルスの影響により、慣例となったブルーシートを敷いての「お花見」は自粛ムードとなりそうだが、私は集団による喧騒が嫌いなので、本来の花見を満喫できるのではないかと静かに期待している。

        そして、番組の中でパーソナリテイ同士が桜にまつわる曲の中で一番好きな曲な何かを答えていた。

        いきものがかりの「サクラ」、坂本冬美の「夜桜お七」、滝廉太郎の「花」などいくつも候補が挙げられていた。

        個人的には森山直太朗の「さくら」(独唱)が1番のお気に入りである。

        桜の木の下には死体が埋まっていると書いたのは梶井基次郎であるが、やはり日本人にとって桜という花は特別な関係があるような気がする。

        醍醐で大花見を催したのは豊臣秀吉であるが、その当時はソメイヨシノは存在せず、山桜が主流であった。

        栄華の象徴であるかのように咲き誇ると同時に、満開を過ぎればあっという間に散り葉桜に転ずる。

        その潔さにも似た、ある意味淡白ささえ感じるその鮮烈さが私は好きだ。

         

        早速、ネットで「さくら」(独唱)の楽譜をダウンロードして、吹いてみた。

        森山直太郎の歌とはまた違う趣が楽器の音色から伝わってくる。

        サックスよりもホルンの音色の方が個人的には好みである。


        元の体に戻れるという奇跡を信じる力と元の体には戻れない中でどう生きるかを模索する力

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          先程、FMを聞いていたら、KinKi Kidsの堂本剛さんが突発性難聴に罹った20歳の女性リスナーの声を紹介していた。

          彼自身、その病と現在も闘っていることもあり、とても共感できる内容であった。

          そして、彼の言葉の中で「元の体に戻れると言う奇跡を信じる強い力と同時に、元の体には戻れない中でどう生きるかを模索する強い力」の両方を持つことが大切であると言う言葉が強く心に刺さった。

          自分自身、人生を振り返ってみれば、働き盛りの中で幾度となく倒れた。

          「本態性高血圧」「急性腎盂腎炎」「鬱病」「突発性難聴」など。

          その当時のことを思い出すと辛さしか記憶にはないが、それでもこうして生きているのは、ある意味不思議な気持ちがする。

          感動ドラマの主人公のような強さを持っていたわけではないので、結局支えてくれた家族とりわけ妻の力は大きいと感じている。

          ある意味、どん底でもあるのであとは登っていくだけという気持ちもあったが、それはやはり元気に回復したから言える後付けかもしれない。

          だが、一日一日を大切にしていこうという気持ちになったことは確かである。

          長期的なスパンで物事を考えるのではなく、とにかく今日をどう過ごしていくか。どう過ごすことが自分にとってプラスなことなのかを意識するようになった。一寸先は闇なのである。理想よりも現実を直視する。そういう風に変わってきた。

          ストレスを感じる人間関係はできる限り断つ。意味のない集団での飲み会などには一切参加しない。

          周囲から協調性がないと言われようが、気にしないように心がけること。などである。

          それによって変な肩こりや頭痛は軽減し、趣味に時間をかける比重が高まり、楽しく人生を送れるようになってきた。

          ただ現在でも血圧や精神安定剤など飲み続けている体であるので、無茶はできない。しかし、自分のできることは多少の無理はあってもやり続けたいと思っている。


          吉田拓郎「ラジオでナイト」を聴いて

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            JUGEMテーマ:日記・一般

            いまラジオをつけたら吉田拓郎の声が聞こえた。

            ニッポン放送で担当している「ラジオでナイト」である。

            来年、行われるツアーの最終曲をリスナーから応募し、そのリクエストに関して自分の意見を述べていた。

            「70年代の岡本おさみの作詞した曲にはその時代の背景が怨念のごとく宿っているので、今の時代には即していないと感じる。」

            なるほどと感じたと同時に、若かりし頃、聴きまくった拓郎を今、ほとんど聴かなくなった理由についても考えてみた。

            一言で言えば、拓郎も72歳を迎えるわけで、自分が拓郎に求めていた「激しさ」とか「情念」というものをその語りからも作る楽曲からも感じなくなったということに尽きる。

            このラジオを聞いていても、終始明るい声でまるで好々爺のような口調で語っている。

            その語り口を聞いて、一時期の体調不良の頃を思うと安堵する気持ちと、何か詰まらなくなったなあという気持ちが心の中で複雑に交錯した。

            時代の怨念というのなら、いつまでも昔の曲のセットリストのオンパレードでは仕方がないのではないか。

            現役のミュージシャンを続けていくなら、やはりポール・マッカートニーのように新譜を発表し続けることに力を注いでほしい。

            それがここ数年見られないし、そもそも楽曲の質が低下している。それはクリエイターとしては致命的なことだと思う。

            このままだと聴く機会は減り続けていくのだなあと思いながら、寂しい気持ちでラジオを消した。

             

             

             


            今宵 2018年のクリスマスイブ

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              今宵は2018年のクリスマスイブだ。

              朝からFM放送はクリスマスにちなんだ音楽を流している。

              クリスマスイブのことを思い出そうとするのだが、鮮やかな記憶がない。

              就職で横浜に来てからの数年は戸塚商店街の飲み屋に行って、マスターたちと取り留めのない話をして過ごしていた。

              ある年はスナックをハシゴをし気がついたら明け方。

              夜鳴きラーメンを食べて、タクシーで家路に。虚しさを噛み締めながら眠ったことを今思い出した。

               

              結婚をし、子供たちが幼かった頃は、クリスマスイブはまさに子供たちのためのものであり、枕元にプレゼントを置いて、起きた時の子供たちの歓声を聞くのが嬉しかった。

               

              今年は、3人家族でお寿司とフライドチキンとピザを食べ、テレビを見ながら静かに過ごした。

              そして、今、書斎で先日紹介したジョン・フォガティの歌声を聴いている。

              当たり前のように過ぎていく時間の大切さを感じている。

               

              1年は短いようで長く、長いようで短い。

              「今年は貴方にとってどんな年でしたか?」とラジオのパーソナリテイが投げかける声に思わず考えてしまった。

              体調を崩し、退職したことを考えれば、想定外でありよくないと言えるのだろうが、こうして家族とともに家で過ごせていることは当たり前のことでは決してない。そう思えるようになってきた。

              「いいか悪いか」の二元論ではなく、色々な面から捉えなくては人生は薄っぺらなものになってしまう。

              今年一番の収穫は去年に引き続き年間を通して100冊以上の本を読破したことである。

              目に見えない形で、心の中に栄養を吸収することができた。この喜びは何事にも代え難い。

              「温床でならどんな芽も育つ。氷の中ででも、芽を育てる情熱があってこそ、真実、生きがいがあるのではないか。」

              今年読んだ本の中でも特に影響を受けた一冊、山本周五郎「赤ひげ診療譚」の中の言葉である。

              胸に強く刻んでいる。


              クリスマスを前にして思うこと・・・

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                JUGEMテーマ:日記・一般

                ラジオ番組の良いところは、リスナーとの双方向性にある。

                昨日、今日と色々な局の番組を聴いていたがその思いを強くした。

                この1年を振り返って、恋愛に悩んだ人。勤め先の上司からのパワハラにより20年間勤めた大企業を退職した人。集合住宅での隣人とのトラブルで転居した人などなど。

                それぞれ、生身の切実な声として番組に投稿し、取り上げるパーソナリティも真剣にその方達に助言をしたり、思いを共有したりというやりとりに心が落ち着いた。

                それは、きっと今の自分が置かれた鬱病による休職及びあと数日後で退職という状況とがオーバーラップしているからであろう。

                ポジティブな考え方が大切なのは百も承知であるし、そうならねばという焦慮もある。

                そうは思っていても、ついネガティブに考え、思い惑うのが人間である。

                そういう人間の持つ弱さに寄り添う番組があることが救いなのである。

                 

                一方、声優ブームか何か知らないが、真夜中であるにも関わらず、人気声優がアニメ声丸出しで黄色い声をあげて場違いな音楽を鳴らしている番組もある。

                特に、ここ数日は差し迫ったクリスマスムードを盛り上げようと殊更にはしゃいでいるパーソナリティには閉口した。

                クリスマスといえば、堂本剛が先程FM放送の中でこう語っていた。

                「本来、クリスマスとは世界中の子供たちがサンタさんに願いを届ける日であり、大人が馬鹿騒ぎしてどうする。」

                「子供たちの願いが星空を駆け巡るサンタさんに届くような静謐さを作ることが大人の役目ではないのか。」とも述べていた。

                全く同感であり、リスナーへの素晴らしいメッセージである。

                 

                ハロウィンでの馬鹿騒ぎにしてもそうだが、多くの日本人の大人が何か勘違いをしているのだ。

                その勘違いを煽るような番組を公共性の高い電波を使って垂れ流していることに腹が立つ。

                かつてイギリスのBBCはクリスマスイブの夜、ビートルズの大傑作アルバム「アビイロード」に収録されている名曲「ゴールデンスランバー」をずっと流し続けた。日本の放送局と天と地ほどのセンスの差である。


                ラジオを聞いて考えたことー発する言葉に謙虚さはあるかー

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                  JUGEMテーマ:日記・一般

                  テレビよりもラジオ派である。

                  ラジコで聞いている。

                   

                  先日も、 NHKのラジオ深夜便を聞いていた。落ち着いた語り口のNHKのベテランアナウンサーがアンカーを務めており、深夜にはふさわしいとは思えない賑やかなチャラチャラした音楽もない、静かな夜更けに聞くにはぴったりの放送番組である。

                  日本の各地からの季節の便りや植物や天体のことなど興味深い話題も多い。

                  ゲストを招いてのワンテーマトークもなかなか味わい深いものがある。

                  その日のテーマは「私の友人」であった。

                  その時のゲストは俳優であり、芸能人夫婦としても有名なW氏であった。

                  何ということもなく聞いていると、段々と不快になっていく自分がいた。

                  自分には有名な芸能人の仲間が多い事や忘年会では50人くらい集まって余興のゲームの景品は自分持ちであるとか、高校時代は生徒会長であったとか、友人は市長をしているとか。要はくだらない自慢のオンパレードなのだ。

                  そういうことを57歳にもなって得意げに、しかも公共の放送を使って喋ることの愚劣さに気づかない。

                  友人によって自分はこういう影響を受けて今日の自分があるという大切なテーマが後回しになっている。

                  すぐにラジオを消した。

                   

                  それに比べて、昨日の文化放送「レコメン」の中のKinKi Kidsのコーナーでの堂本剛の話は心に響くものがあった。

                  今年の年末にある恒例の年越しのライブイベントには出られないという理由を切々と語っていたのだ。

                  「自分は音響障害という障害があるため、大きな会場で響く音が頭の中で反響して自分が何を歌っているのか分らなくなる。そういう状況を理解してほしい。」という内容であった。

                  そして、その障害があるからダメだと思うのではなく、今の自分の置かれた状況の中で、最大限音楽に関われることとは何かを考えながら応援してくれるファンの方のために精一杯のことにトライしていくと結んでいた

                   

                  私はKinKi Kidsのファンではない。しかし、切々と一つ一つの言葉を大切にして語るその言葉に感動した。

                  先に紹介したW氏と彼との違いは、「謙虚さ」に尽きると思う。

                  芸能人の仕事の本質は芝居にしても歌にしても、見に来てくれる客ありきのものであろう。

                  その根底の部分での「謙虚さ」があるかどうかが喋る言葉に表れるのだと思う。

                  私が敬愛してやまない山本周五郎はすべての文学賞を辞退した。なぜなら、最大の評価者は読み手以外ないと考えていたからである。

                  そういう生きる姿勢を学びたい。


                  「ベストヒットUSA」 小林克也の言葉

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                    JUGEMテーマ:音楽

                     

                    今日の深夜FMを聴いていた。「ベストヒットUSA」である。

                    1980年代においては洋楽の最先端を紹介する草分け的なテレビの人気番組であった。

                    MCはその頃と同じ小林克也である。

                    あの独特の語り口はいまも健在であった。

                    チャート形式で曲を紹介していく中で、気になった言葉があった。

                    「アメリカではいまアルバムは全く売れない」ということである。

                    十数曲まとめたアルバムを買う人は大幅に減り、i Tunesなどを通じてよい曲があれば曲単位で購入する人が圧倒的に増えたということである。曲単位で買ったものを集めて自分のお気に入りのプレイリストを作るというのがトレンドであるらしい。

                    そういう流れ合わせて、アーチスト側も頻繁にシングルを作って配信する傾向が見られるという。

                    アリアナ・グランデなどが顕著な例であるということを語っていた。

                     

                    自分が若い頃はレコード盤のジャケットも含めて「コンセプトアルバム」というアーチストの表現したいテーマが如実に表れているものが存在し、ファンにとっては人気が高かった。もうこれからの時代コンセプトという概念すら消えていくのかも知れない。

                    少し寂しい気がする。

                    レコード店での試聴もままならない時代であったので、ジャケットから音を想像したり、ジャケットそのものに惹かれてレコード購入に走るということもあった。いわゆる「ジャケ買い」である。

                    今はどのアーチストのジャケットを見てもアートを感じさせるものが少ない。

                    レコードに比べて、表現するスペースが小さいということもあるがJPOPなどは大抵がアーチストの顔や姿を載せていればいいやくらいの感覚でつくっているものが圧倒的に多くて、没個性の極みである。

                     

                    だから、必然的に耳を傾ける音楽が70年代や80年代の音楽に回帰することになる。

                    最近、よく聴いているのは1974年発売のkansasのファーストアルバムである。

                    ヴァイオリンとキーボードの絡みが絶妙であり、40年以上前の作品とは思えない色褪せない音楽である。

                    プログレッシブ・ロックなどというジャンル名をいま言っても理解不能なのだろうが、その時代を代表する音が確かに存在した。

                     


                    「世界の果てまで行ってQ」のやらせ報道について

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                      「世界の果てまで行ってQ」の名物コーナーであった「世界の祭り」がいま大きな矢面に立たされている。

                      今日は日本テレビの社長が緊急の謝罪会見を行った。

                      その事に関して、先ほどFM J−WAVEのJAM THE WORLDにおいてコメンテーターの堀潤が語っていたことが印象的であった。

                      要約すれば次のようになる。

                      高視聴率の番組であり、子供からお年寄りまでが楽しめる番組であっただけに残念である。たかがバラエティ番組を盛り上げるための演出ではないかという声もあるが、問題はそんなに単純ではない。今回対象となったラオスやタイといった東南アジアの国の人たちに対して札束で釣るような行為は、そういった国々の人たちを上から見下げているような侮蔑的な行為でもある。バラエティだから、おもしろければということで片づけてはいけない。

                      私はこの言葉に共感した。

                      制作者の心の裡にそういう意識がなかったかといえばウソであろう。

                      相手が欧米の国々であったならばそういうことをしたのだろうか?

                      徹底的に今までに取り上げた祭りすべてを調べるくらいの覚悟が日本テレビには求められているのではないか。

                      いまや地上波の番組のつまらなさには目を覆いたくなる。

                      クイズか動物か健康である。だから、私はニュース以外見ない。

                      出川哲朗のお決まりのフレーズ「リアルガチ」をテレビに求めているのだが、そういう番組がなくなってしまったのが現実である。

                      その中にあって「行ってQ」は見て純粋に楽しめる番組であった。「初めて知ること・見ること」も多く面白かった。だから、大河ドラマをもしのぐ国民的番組になったのであろう。

                      「視聴率」という数字に目を向けるのではなく、見ている人間に対して嘘をつかないということが番組作りの大前提であることを番組に携わる人々全員が肝に銘じてほしい。

                      宮川大輔のツイッターサイトに応援メールを送って偽善者ぶっている者の行為など具の骨頂である。


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