それを「矛盾」ととるなら、矛盾でいい。いくら電力を使いまくっても、脱原発は主張できる。原発関係の企業や省庁に勤めていても同じだ。問われているのは、福島のような放射線汚染は未来永劫(えいごう)二度と起きないと言えるのか、ということだからだ。あるいは、最終処分場も決めず、見知らぬ未来の人々に核廃棄物を託してもいいのか、ということだ。エネルギー論というより個人の倫理が問われている。
意見とは本来そうだし、特に倫理について語る場合、地位や経歴、立場、ふるまい、過去との一貫性にとらわれず、どこまでも自由であっていい。だから「電気自動車のCMに出ている坂本龍一が脱原発を語れるのか」「テクノポップで電気を使ってきた」という非難は、問われている問題の本質をぼやかすだけだ。【藤原章生】
毎日新聞のコラム「憂楽帳」である。藤原氏の論理は明快であるし、その通りである。
ただ、正直自分は全面的に共感できない部分もある。
石原慎太郎が原発の問題を感情で考えてはいけないと息巻いた。
しかし、人間らしさとは、まさに感情や情動に左右されるものではないか。
原発再稼働に踏み切った野田政権とは民意という感情を排除していることに問題がある。
そして、いつも原発をなくしたら電力が足りませんよと脅しをかける。
全くの虚言であるのはわかっているが、その嘘で押し切ろうとする。
ならば、フクシマの事故で故郷を失った人、今でも仮設住宅で生活を余儀なくされている人々。
壊滅的な被害から回復できない東北の漁師さんの身になって、できる限りの節電をすることに決めた。
最近、連日猛暑日であるが、我が家はクーラーのスイッチはつねにオフだ。
オリンピックもできる限り見ない。
脅しに屈したら負けだ。
日本国民には知恵がある。みんなで、震災の人々の苦しみを分かち合おうとする気持ちもある。
それを感情や情動で流されると笑うなら笑うがいい。
日本人のよさとはそういうところにあるのだと私は信じている。
朝日新聞のWEB論座に反原発運動は反政府運動であるという論評が載っていた。
すべては読んでいないが、まさにその通りである。
反政府運動とはいえ、政権を転覆させるというクーデターという意味ではない。
しかし、体制側が国民の思いを無視して原発再稼働、オスブレイの強硬配備に突っ走っているのを静観できないというのが国民の意志である。
この動きが無視できないのはイデオロギー闘争ではないところだ。
生命を重視するのか否かの分岐点である。
TPPの難題も野田は頭を抱えているが、以前自分はこのブログでジェネリック医薬品を排除することにつながり、国境なき医師団の活動など緊急援助の大きな妨げになると書いた。
アメリカは強者の論理で押し切ろうとし、日本はただ追随するだけだ。
これだけ弱者を踏みにじる政権も珍しい。
野田=NODA。野田政権はNOと主張することはローマ字の綴りが暗示している。
YESに変えるとそれを不定する無を入れることになる。
そうするとMUNODA。つまり無能だになる。
いずれにせよ、どうしようもない政権なのだ。