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「ちいさこべ」「ひとごろし」 周五郎の名品を味わう
読書 / カーソン・ライダー 
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    4年に1度のスポーツの祭典である「オリンピック」に注目し、興奮・感動を味わいながらも、一方では読書も堪能している日々である。

    山本周五郎の作品を立て続けに2冊読み終えた。

    「ちいさこべ」「ひとごろし」(どちらも新潮文庫)である。

    短編集である。

    「ちいさこべ」収録の、タイトルにもなっている「ちいさこべ」。

    江戸を舞台に、大火事で両親を初め多くの大切なものを失いながらも、その逆境にめげずにけなげに生きる大工の若棟梁の心意気が読み手の心に爽やかに感動を与える内容である。

    昭和の時代には、こういう前向きに生きる家族の物語が小説や本でもいくつか描かれたものだが、現代ではほとんど皆無になってしまった。

    だからこそ、一層の読後感のよさが心に沁みる。

     

    「ひとごろし」は物騒なタイトルだが、バラエティ豊かな10篇が収められている。

    冒頭の「壺」はその道を究めるということはどういうことなのかを考えさせてくれる内容である。

    「人間の値打ちは身分によって定まるものではない、各自その道に奉ずる心、おのれのためではなく生きる道のために、身心をあげて奉る心、その心が人間の値打ちを決定するのだ、百姓は米を作るが、自分では多く稗麦を食べている、自分では食べないのになぜ艱難を凌いで米を作るか、それは米を作ることが百姓の道だからだ・・・」

     

    表題作「ひとごろし」の武芸の技をもたない侍が、どう腕達者な殺しのお尋ね者を追い詰めていくのか?

    その機転に思わず引き込まれる佳品である。

    また、綿密ともいえる裁定から導き出されるあざやかなオチの付け方が見事な「改訂御定法」など。

    周五郎の筆が冴える作品が多い。

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    平昌オリンピック 羽生結弦「王者の演技」
    スポーツ / カーソン・ライダー 
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      JUGEMテーマ:スポーツ

       

      久しぶりにスポーツを見ていて、泣いてしまった。

      2018 平昌オリンピック 男子フィギアスケート シングルフリーでの羽生結弦選手の演技である。

      アナウンサーの「王者の演技」という言葉がその凄さを端的に言い表している。

      昨日のショートプログラムでの完璧な演技のあとのインタビューで「僕はメンタルは強い方ではないので・・・」と語っていた姿を見て、何と強い人間なのかと改めて思った。

      自分の弱さを隠すことなく、言い切れる人間こそ強い人間ではないかと思うからだ。

      右足の靭帯断裂。

      実は自分も若い頃経験したことがある。その痛みや腫れは信じられないくらいのもので、完治するまでに、ただ日常生活を送るだけでもとてもしんどい思いをした。今でも冬になると古傷は痛み、正座のできない足になってしまった。

      その大けがをした人間が、オリンピックという大舞台であのような演技ができること自体が「奇跡」なのである。

       

      私見ではあるが、羽生選手の演技が他の選手と決定的に違って見えるのは、彼の精神を支えている幹の中に深い悲しみや苦しみがあり、それを乗り越えてきたものにしか表現できない、情感豊かな魂を感じるからだ。

      勿論、練習や努力に裏打ちされた高い技術が伴っていることは言うまでもないことだが、その内面性によるものが大きいと感じた。

       

      それはある意味ストイックなまでにフィギアスケートに賭ける「求道者」のような静謐でありながら孤高ともいうべき高みを求めている姿にも見える。

      羽生選手にとっての真のライバルは、他の選手ではなく己自身でしかない。

      そんな演技に見えた。

      だから、次元を超えた圧巻な演技なのであろう。

      そんな奇跡の瞬間に立ち会えたことは感動そのものであり、人間のもつ内面の力の大きさを改めて感じた貴重な4分30秒であった。

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      読書の愉悦 「赤ひげ診療譚」
      読書 / カーソン・ライダー 
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        昨年は人生史上初となる年間読破数が100冊を超えた年であった。

        読書生活が充実していたその大きな理由は、今まで読んだことのなかった作家の作品に触れ、その魅力にひかれ貪るようにしてその作品が読んだことである。

        夏目漱石と司馬遼太郎である。

        昨年のこの時期はひたすら漱石を読みまくっていた。

        今年もまた、未読の作家との出会いがあった。

        山本周五郎である。

        ひょんなことから小川笙船を知ることがあり、調べてみるとあの三船敏郎主演の映画でも馴染み深い「赤ひげ」のモデルとなった医者であることが分かった。

        そして、早速「赤ひげ診療譚」(新潮文庫)を手に取った。

        正直、これほど面白いとは思わなかった。

        流石は、黒沢明が惚れた作品である。

        小石川養生所を舞台に、新出去定とその弟子である保本昇との医者としての人間的な交流を描いた物語であるが、軸は保本昇の成長物語と言い換えてもよい。

        収められている6編がそれぞれ味わい深いものであり、弱い人間に対しての去定の一見武骨でありながらも、温かな眼差しが心に響く。また、弱い人間にのしかかる社会のありようや貧困と無知についてのまっすぐな怒りが胸を突く。

         

        「医術などといっても情けないものだ。長い年月やっていればいるほど、医術が情けないものだということを感ずるばかりだ。病気が起こると、ある個体はそれを克服し、別の個体は負けて倒れる。医者はその症状と経過を認めてやることはできるし、生命力の強い個体には多少の助力をすることもできる。だが、それだけのことだ。医術にはそれ以上の能力はありゃしない。」

        「現在の我々にできることで、まずやらなければならないことは、貧困と無知に対する闘いだ。貧困と無知とに勝ってゆくことで、医術の不足を補うほかはない」

        「貧困だけに限ってもいい。江戸開府このかたでさえ幾千百となく法令が出た。しかし、その中に、人間を貧困のままにして置いてはならないという箇条が一度でも出された例はあるか。」

        これは、「駆込み訴え」の話の中に出てくる去定の言葉である。

         

        物語を通して去定が出てくる場面はさほどは多くはない。しかし、彼の口から語られるひとつひとつの言葉の重さ、鋭さが強い余韻を残す。それ以上にそれぞれの作品に登場する主人公の心の機微を温かな視点で描いた見事な作品である。

        特に「駆込み訴え」の六助の悲しみが心に響いた。

         

         

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        ゴミ箱から、ブルース
        歌詞 / カーソン・ライダー 
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          JUGEMテーマ:音楽

           

          火を点けてみてもいないのに 分かろうとするなよ

          分かってもいないのに 捨てようとするなよ

           

          ひっくり返ったゴミ箱みたいな夜から 

          転がり出してきたこの歌は

          果たして燃えるゴミなのか? 燃えないゴミなのか?

           

          ブルース 潔く燃え上がって 明日を照らすかもしれないし

          ブルース 揺るぎなく微動だにせず 明日も在り続けるかもしれない

           

          ブルース・・・

           

          竹原ピストルの新曲「ゴミ箱から、ブルース」である。

          一聴しただけで彼らしさが伝わってくる腹に沁みるブルースだ。

          間奏での尺八の音色が実に素晴らしい。この楽曲に不思議な魅力を与えている。

          この歌を聴きながら、西村賢太の新作「夜更けの川に落葉は流れて」を読み始めている。

          竹原ピストルと西村賢太。

          どことなく風貌が似ているだけでなく、醸し出す詩の雰囲気も綺麗ごとではない、骨太でありながらひりひりするような生の描写で好きだ。

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          鬼門の2月 「関ケ原」を読む耽る
          読書 / カーソン・ライダー 
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            ジンクスは本当に当たるもので「2月は鬼門」の通り、体調を崩している。

            今までにも、何度かかかったことのある溶連菌感染症である。

            子どもがかかることが多いのだが、勿論感染症なので出席停止扱いとなる。

            大人であっても同じであり、はしかなどと同様に大人のほうが症状は重い。

            当然、安静にしてるのだが、少しでも気分がよいと読書をしている。

             

            司馬遼太郎の「関ケ原」も中を読み終え、その勢いのまま下も残りわずかとなってしまった。

            格別な面白さである。

            西軍大将の石田三成は義の人であるということは以前にも記したが、あまりにも観念に立ちすぎるので、戦における現実的なものの見方ができない。また、人の心の機微を情で考えるということができない性格ゆえに、西軍をまとめきることができなかった。

            そういう意味においては「負けるべくして負けた」ともいえる。

             

            しかし、そんな戦いの中にあって、側近である戦術指揮官 島左近の生き様は見事の一言である。

            負けを覚悟した時、三成を落ち延びさせることに専心する姿は。まさに男が惚れる男ともいってよいだろう。

            また。西軍の中にあっての大谷刑部少輔吉継の働きにも感動した。

            小早川秀秋の裏切りの報せを受けた吉継は、眼前の東軍の敵である藤堂、京極勢を捨ておき、山から駆け下りてくる小早川の大群に対峙し、猛攻撃を仕掛けたのである。

            「やれ、金吾なる者は、千載の醜名を残したぞ。裏切り者を崩せ。突けや。雑兵雑輩には目もくるるべからず。いちずに金吾が旗をめがけよや、金吾を討て、金吾を地獄におとすのに牛頭馬頭邏卒の手をば借りるべからず、汝らが地獄の邏卒のさきがけをせよ。」

            鬼神のごとくの吉継の姿は、士気を高めるには十分すぎるほども気迫をもったものであり、関ケ原の戦いにおける東西の武士の中で「名将」という名に恥じないのは吉継こそとまで、司馬遼太郎は記している。

             

            その吉継も戦いのなかで自害を決意し、首を介錯させるのであるが、その際「わが首を、敵に渡すな。」と申し付ける。

            介錯の任を預かった近習の湯浅五助が、その首を穴に埋めた際に、東軍のかつての友である藤堂仁右衛門と逢う。

            かつての友とはいえ槍を交え、五助は落命するのであるが、今際の約束があった。

            埋めた吉継の首の件を絶対に漏らしてくれぬなという約束である。

            策謀、寝返り、裏切りが当たり前の時代。子であれ、妻であれ、親であれ、自分の利のためなら殺すことも厭わなかった時代。

            関ケ原の戦場において、生まれた約束。

            それが命を賭けて、守られるというのもこの時代の奇跡のひとつであろう。

             

             

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            ディアベッリの主題による33の変奏曲
            音楽 / カーソン・ライダー 
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              JUGEMテーマ:音楽

               

              最近の音楽傾向として、出勤時や昼間に聴く音楽と帰宅して家で聴く音楽とは極端なほど対比的である。

              ブルータルなデス声にメロディックな響きをプラスしたファイブ・フィンガー・デス・パンチのヘビメタサウンドで頭を覚醒させ、夜はひたすらクラシックに身をゆだねている。

              クラシックでは、ベートーヴェン「ディアベッリの主題による33の変奏曲」を特によく聴いている。

              変奏曲の規範的なルールを破り、性格変奏ともいえるその音楽は、ある意味、聴覚を失い内省的かつ瞑想的な気分に陥っていたであろうベートーヴェンの凄まじいばかりの独白表現とも言い換えてもいい。

              そもそも、初めにディアベリ自身に作曲を依頼されたときは、あまりにも陳腐なその曲を拒絶していたのである。

              ところが、よほど困窮していたのだろうか。いざ仕事を始めてみれば適当に茶を濁してというような安易な作品ではないどころか、まさに超絶ともいえる大作に仕上げたのである。

              しかも、その音はまるで予定調和を排したかのような時に獣の咆哮ともいえる、剥き出しの音ともいうべき迫力に満ちている。

              いま聴いているのは鍵盤の師子王といわれた20世紀最大のピアニストのひとりヴィルヘルム・バックハウス 1954年の録音である。

              聴き手に一切媚びることのない、妥協なきピアノの音の響きを堪能している。

               

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              百年泥
              読書 / カーソン・ライダー 
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                第158回芥川賞受賞作「百年泥」(新潮社)を読んだ。

                100年に1度という南インドのチェンナイでの大洪水を目の当たりにするところから物語は始まる。

                熊手に掻かれ、盛り上がった百年泥にまみれて出てくる、何やらいわくありげなものや人。

                そういったものにつながる記憶が炙り出されてくる描写が面白く、惹きつけられた。

                 

                かつて綴られなかった手紙、眺められなかった風景、聴かれなかった歌。

                話されなかったことば、濡れなかった雨、ふれられなかった唇が、百年泥だ。

                あっかもしれない人生、実際は生きられることがなかった人生、あるいはあとから追伸を書き込むための付箋紙、それがこの百年泥の界隈なのだ・・・

                 

                特に最後の登場人物のひとりであるディーバラージの大阪・万博エキスポ70のコインにまつわる話は深く心に刻まれた。

                簡単に言えば、人の善意と供養の話である。

                どこか荒唐無稽でありながらも、読み手の感性のつぼをおさえてくる小説である。

                 

                文体に何となくぎくしゃくするような硬さがあるので、読みなれるまで少し時間がかかった。

                だが、内容は面白いので一気読み確実である。

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                交響曲「第九」の秘密
                読書 / カーソン・ライダー 
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                  10億人が聴いた「歓喜の歌」の真実が、ドイツ人研究家によりいま初めて明かされる!

                   

                  この帯に惹きつけられ、衝動買いしてしまった「交響曲第九の秘密」(ワニブックスPLUS新書)。

                  ベートーヴェン好きの自分にとっては、興味深い内容であり一気読みした。

                  何と言っても一番の驚きは、日本で第九が初演されたのは、第一次大戦後に日本の捕虜収容所となった徳島県坂東町においてのドイツ人捕虜によるものであったという事実である。

                  この捕虜の中に、パウル・エンゲルというバイオリニストがいなかったならば、演奏は成立しなかった。

                  また、収容所の所長であった松江陸軍大佐の外国人捕虜に対しての寛容さがなかったならば実現は不可能であった。

                  1918年のことである。

                  いくつもの奇跡に彩られて、我が国の第2の国歌ともいえる存在になっている第九の合唱。

                   

                  本題の第九の合唱に込められたベートーベンの思いについてであるが、彼はキリスト教の一神教的な考えを伝えたかったのではない。

                  もっと普遍的な、人間を肯定し、ポジティブに生きる思いこそをこの歌に託した。

                  生きていること=苦しみの連続であったベートーヴェン。

                  幼少の頃は父親の虐待に近い暴力に怯え、17歳から独力で生きて行かねばならなかった。

                  そして、鬱病に苛まれるなか、幾度か自殺を決意するも、生きることをやめない強靭な意志。

                  そんなストレスとの戦いの中で、音楽家にとっての生命線ともいえる難聴は悪化し、ついに完全に音のない世界に入る。

                  しかし、彼はその無音の中で、真実の悟りの境地に至るのだ。

                  そして、彼が遺した交響曲第9番こそ、彼が人々に伝えたかったメッセージが込められている・・・

                   

                  それは、否定的な感情を振り払い、より積極的な気分を自分の中に創り出すこと。

                  そして、生活の中に愛を見出し、与えられるものを待つのではなく、誰かの最良の友人になるべく努めること。

                  自分の愛を誰かに与えることの大切さを語っている。

                  決して愛に恵まれ人生とはいえないベートーヴェンがたどり着いた至福への心境。

                  読み終えた後、改めて彼の厳しくも真摯な生き様に心打たれている。

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                  ノーエスケイプ 自由への国境
                  映画 / カーソン・ライダー 
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                    JUGEMテーマ:日記・一般

                     

                    久々に映画の話である。

                    I PHONEで「ノーエスケイプ 自由への国境」を見た。

                    メキシコとアメリカの国境で、不法入国を巡って何が起きているのか?

                    しかし、そんな政治色とは無縁のひたすら謎のサイコパス的な襲撃者から逃れ、アメリカをめざすという筋立ててある。

                    物語としての展開すらない。

                     

                    一番の主役は何と言っても「砂漠」である。スペイン語の原題はズバリ「砂漠」である。

                    最後の場面。あのハイウエイの光は本物なのか?

                    それは希望なのか。絶望なのか。判然としなかった。

                    個人的には、あの名作「目には目を」を思い出した。

                    生き残った主人公が最後に目の当たりにしたシリアの荒涼とした砂漠のシーンである。

                    それと似たエンディングであり、その作品に影響を受けているのではないかと勘繰ってしまった。

                     

                    88分間の緊迫感というキャッチコピーは嘘ではないが、命を賭けてまでアメリカにという人間的なドラマが語られていないために、逃亡する主人公たちへの感情移入や共感までには至らない。

                    自由への国境という邦題が薄く感じられたのはそのせいであろう。

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                    「関ケ原」
                    読書 / カーソン・ライダー 
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                      司馬遼太郎「関ケ原」を読んでいる。

                      昨年、映画化もされ、岡田准一演ずるところの石田三成が注目された。

                      当然、その敵役といえば徳川家康なのだが、同じ司馬遼太郎が描いた「覇王の家」の家康像とは全く異なったものとなっている。

                      「覇王の家」においては、三河武士の典型的な人物として描かれ、部下を登用する際に人心収攬術など使ったことなどない質朴さが伝わる人物像になっている。

                      しかし、「関ケ原」においては謀に長けた側近の本多正信を使い、秀吉亡き後の天下を自分の手のものするために、なりふり構わず謀義・謀略を図る策士的な側面が強く出ている。

                      そのため、観念的にまで「義」を重んじる石田三成とは明暗くっきりといったコントラストをなしている。

                      そこがこの作品の読みどころである。

                       

                      文庫本上、中、下の三部作であるが、上を一気に駆けるようにして読み進め、あと残り僅かである。

                      理が立ちすぎるあまり、人の情に対しての想像力に欠ける石田三成が家康の天下取りの邪魔者として、加藤清正をはじめとする家康側に与する武将たちに命を狙われる最中に、あろうことか自分の命を庇護を敵の主雄である家康にもとめるという場面が特に印象的であり、強く光彩を放っている。

                      その場面での謀臣 本多正信との駆け引きは緊張感の溢れる名場面である。

                      「あれらが(加藤清正など)猛り狂うのは、わしのへいくゎい癖(横柄な性格)だけが因ではあるまい。おおかた、あの馬鹿どもを走らせているのは、黒幕にいる術者であろう。その術者が、佐渡守(本多正信)殿、まさかそこもとではあるまいな。」

                      火中に飛び込んでいながら、この言葉である。

                      また、家康もさすがは古だぬきである。

                      三成を殺さないのである。豊臣の息の根をとめるために、まさに虎を野に放つのである。

                      この二人の対決はどのような展開を帯びていくのか?

                      今後の展開が楽しみであり、わくわくしている。

                      毎度のことだが、司馬遼太郎の筆力に脱帽している。

                       

                       

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