「壬生義士伝」言いようのない深い感動に包まれている・・・

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    前に、今年読んだ本のベスト候補として葉室麟の「秋霜」について述べたことがある。

    しかし、その「秋霜」を上回るどころか、軽く凌駕する作品に出会った。

    浅田次郎のベストセラー「壬生義士伝」(文藝春秋)である。

    百田尚樹の「永遠の0」はこの作品のオマージュであり、彼をして「昭和の壬生義士伝」を書きたかったと言わしめた作品である。

    新選組において異彩を放つ南部藩の吉村貫一郎の物語である。

    彼にゆかりのある人物を訪ね、彼の死後50年経った大正時代に、その生き様を語らせるという構成の軸は見事である。

    一人称の物語以上に重層的に人物像が浮かび上がり、物語に深みと厚みが増している。

    また、一つ一つの言葉や一文一文が心に響くというよりはむしろ刺さってくる感じがする本に久しぶりに出会えた。

     

    新選組3番隊組頭である斎藤一との確執の中で、最後に斎藤がつぶやく次の言葉が強く心に残った。

     

    人それぞれに、生まれついての宿命はあろう。いかんともしがたい苦悩を抱えてもおろう。将軍も足軽も、苦悩の糧は同じじゃ。じゃが、これほどおのれの宿命に屈せず、苦悩に抗い続ける侍が他にあろうか。神に挑み続ける人間が、他にあろうか。

    妻子を養うために主家を捨てる。しかし、恩と矜りとは決して忘れぬ。

    守銭奴と罵られ嘲られても、飢えた者に一握りの飯を施す、

    一見して矛盾だらけのようでありながら、奴はどう考えても、能う限りの完全な侍じゃつた。

     

    脱藩という武士としての汚名にまみれながら、飢えから愛する妻と子を守るために人を斬る貫一郎。

    そして「鬼貫」と恐れられ、斬るたびに褒賞金は増え、そのほとんどを国許に仕送り続けるその姿。

    全ては、妻と子供のため。

     

    わしはお前たちのためならば、いつ何時でも命を捨つることができたゆえ。さしたる覚悟もいらず、士道も大義もいらず、お前たちに死ねと言われれば、父は喜んで命ば捨つることができたゆえ。んだから、お前たちこそがわしの主君にちげえねえと思うた。

    女房に忠義を尽くすなど、人が聞いたら笑うじゃろう。じゃがわしは、心の底から感謝ばしておった。

    男が惚れた。惚れて、惚れて、この気持ちどうしたらよがんべえと思い続けるほど惚れ抜いておった。

     

    この小説は哀切極まる「愛の物語」とも言い換えることができる。

    久しぶりに言いようのない深い感動に包まれている。


    グラミー賞最多受賞 ゲオルグ・ショルティの振るベートーヴェン

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      今日、最も知られている世界的権威の音楽賞といえばグラミー賞であろう。

      そのグラミー賞の最多受賞者はという問いに対して、即答できる人がいれば相当の音楽通と言える。

      なんと受賞回数31回、ノミネート76回。圧倒的な世界記録である。

      2位のソウルシンガー アレサ・フランクリンの16回のおよそ2倍であり、大きく引き離している。

      その答えは、このブログでも何度か紹介した、ゲオルグ・ショルティである。

      残念ながら、ショルティの我が国においての評価は低い。

      クラシック界の指揮者といえば、カラヤン、バーンスタインの知名度が日本では飛び抜けて高いのに比して広く知られていないのが現状である。

       

      好みの指揮者というのはビールに似ている。

      数多あるビールの銘柄でも大好きというビールは限られており、私はその筆頭格がショルティである。

      特に、ベートーヴェンの交響曲の全曲録音盤を頻繁に聞いている。

      彼はこの録音を生涯を通じて二度行った。1970年代初頭と1980年代後半である。

      オーケストラは勿論シカゴ交響楽団である。

      当時のオーケストラの中にあり、技術力では世界一と言われ、カラヤン率いるベルリン・フィルと双璧をなしていた。

      カラヤンはショルティのことを特に意識していたという(ライバル視)話も伝えられている。

       

      最近聞いてるのは後年の方のベートーヴェン全集である。

      ショルティは原典を重視する指揮者である。書かれた音符を忠実に再現する安定感と「良く鳴る」オーケストラであるシカゴの達者な演者の力量をダイナミックに引き出す再現性にこそその魅力はある。

      聴き終わった後の何とも言えない愉悦感がたまらない。

      特に、ゆったりとしたテンポの中に、深いメロディが心に沁みる第九の第3楽章などがその好例であろう。


      「ずっと晋作が描きたかった。」春風伝を読む。

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        本は堅実に読んでいるのだが、ブログに認めるのが億劫になっていた。

        最近、読んだ本の中で心に残ったのは葉室麟の「春風伝」(新潮社)である。

        歴史上の人物である高杉晋作を取り上げたこの作品の大きな軸になっているのは、太平天国の乱で揺れていた上海に渡っていた時の出来事である。

        高杉晋作といえば、司馬遼太郎の「世に棲む日日」が有名であり、私の愛読書でもある。

        高杉の疾風迅雷の生き方に感銘を受けた。

        しかし、司馬作品にはほとんど上海での出来事には触れられていない。

        そういう意味においても、新しい角度から高杉を捉えた作品であり、大変興味深いものがあった。

        太平天国の乱においては男だけでなく、女も子供も見事に戦った。

        晋作の師でもある吉田松陰の思念「草莽崛起」とも共通する姿を目の当たりにした晋作は深い感銘を受けるのである。

        「草莽崛起」とは「国に在るを市井の臣といい、野に在るを草莽の臣という。皆庶人なり」という孟子の書から取られている。つまり、地方の草深い地に住み、身分が低く、貧しい者の中から世を変えるものが出てくるということで在る。

        その上海の地で一人の女性に会う。周美玲である。

        命を懸けて、戦うその姿に晋作が後年まで大きな影響を受けた人物である。

        上海でのその出会いと別れまでに大きな紙幅を葉室麟は割いている。いかに、隣国中国における欧米列強およびその傀儡政権となった政府と対抗する草莽の臣としての名もなき人々の姿が高杉のその後の行動の大きな原動力になったかを伝えているのだ。

        「ずっと晋作が描きたかった。」と語っていた葉室麟のその強い思いが直接的に伝わってくる作品である。


        チェリビダッケの魔法

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          「作品のテンポはスコアに記されたメトロノームの数字で決まるのではなく、スコアに記された他の要素や、演奏会場の音響によって左右される。音符の数が多ければ多いほど、音が響いて反響して耳に届くまでに時間を要する。つまり、音楽が豊かであればあるほど、テンポは遅めにとらなければならない。」

           

          チェリビダッケの言葉である。

           

          彼の指揮するミュンヘン・フィルのベートーヴェンの交響曲第7番と第8番のライブ音源(1989年、1995年)を聴いているのだが、そのテンポ設定はまさにこの言葉を裏付けるが如く雄大である。それは、カラヤンの演奏とまさに対極である。

          爆走するかのごとくカラヤンの指揮は圧倒的な演奏であると思うが、チェリビダッケの解釈も実に素晴らしい。

          テンポが遅いということは、ごまかしがきかないということでもあり、より完璧な演奏が求められるということである。

          フルトヴェングラー後のベルリン・フィルの常任指揮者候補であったにも関わらず、そのあまりにも厳しすぎる演奏の要求がもとで演者との間に確執が生じ、結局はその座をカラヤンに奪われることになるのだが、ここで聞かれるミュンヘン・フィルの演奏は本当に見事である。

           

          スタジオ録音では音楽の最大の魅力を引き出すことはできないという考えを貫いたチェリビダッケの真骨頂である。

          異彩ではあるが、その演奏は圧倒的な感動をもたらしてくれる。

          まさにチェリビダッケの魔法である。


          久しぶりにルーズヴェルト・ゲーム・・・

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            幾つもの挫折を経て、今週より再び学校現場に復帰した。

            スクールサポーターという非常勤講師である。

            35年間の教職では経験のなかった個別支援級での仕事である。

            前日は、緊張のあまり神経性の胃炎/胃痛になり食事も喉を通らなかった。

            そんな中、GYAOで久しぶりに「ルーズヴェルト・ゲーム」を視聴し、勇気付けられた。

            半沢直樹で馴染深い池井戸潤原作のドラマである。

            キーワードは「逆転」である。

             

            最近、ひきこもりが話題になっている。特に60万人超とも言われている中高年層の実態は深刻である。

            先ほどネットニュースを検索していたら、中高年層のひきこもりの要因として、退職が大きく影響していることが分かった。

            それも上司によるパワハラや人間関係の軋轢により、精神的に追い詰めれられての退職が多く、そういう人は大多数が二度と社会復帰を目指さないということである。睡眠障害から始まり鬱状態、パニック、イライラによる凶暴性など、本人以上に家族が苦しめられるケースも多い。

            実は、私もそうであった。このブログでもしばしば記しているが、パニック以外は全て経験した。

            正直、その時期は本当に苦しかったし、死にたいとさえ考えたこともある。

            それでも、こうして生きている。あれほど苦しかった学校現場にも復帰を果たした。

            私が特別だったわけではない。

            ただ、病気が少しずつ改善していく中で、このままではまだ終われないという思いはあった。

            初めは微かな灯火にしか過ぎなかったが、家族をはじめ、高校時代からの友人や後輩、恩師などの支えがあって、何とかその火影が大きくなってきただけである。自分も1年以上の休職を経験したので、現在、ひきこもりの人の中で鬱病に苛まれている人の苦しみは分かる。簡単に社会復帰が成し遂げられないということも。

             

            しかし、諦めたら終わりだということを伝えたい。テレビドラマのような劇的な「逆転」はなくとも、せめてドローに持ち込むくらいの気持ちは捨ててはならない。一人では苦しくても、必ず自分を支えてくれる人はいる。それは数ではない。

            詩人の相田みつをはどんな酷い出会いであっても、それは「逆縁の菩薩」であると語っていた。それは、かつて軍隊時代に酷いいじめを被った上官のことである。「こういう人間にだけはならない」ということを教えてくれた稀有な存在であるということである。

            そう思えば、苦しく辛かった人間関係の軋轢も少し楽に、軽く感じるはずである。くだらない人間のために命を縮めることなど全くナンセンスである。

             

            ところで今日は、久しぶりに1年生と3年生の子供達と休み時間に鬼ごっこをして過ごした。

            自然に、そして笑顔で私の手を繋いで校庭に誘ってくれた。その掌の温もりはかけがえのないものである。

            その大切なものを取り返すために戻ってきたのだ。

            諦めたら終わり。カウント10を自分で数えることだけはしたくない。ただそう思うだけだ。


            「年金」問題 そしてニート、フリーター、YOUTUBERについて

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              言いたいことが山ほどあるので、今日はとりとめのない話になってしまうかもしれない。

              最近のニュースで1番の話題は「年金」問題である。

              金融庁が提出した報告書によれば、年金生活に入る時期から95歳まで生きると仮定して2000万円貯蓄がないと生活できないという発表である。

              実は60歳後半の人たちの平均貯蓄額は2400万円以上というデータがある。しかし、問題なのはこの数値は平均値であり、5千万円以上ある人たちと逆に100万円以下という人たちとの間に大きな溝があり、平均という言葉に騙されてはいけないということである。しかも、2000万円不足というのは厚生年金受給者の話であり、フリーランスや個人事業主は国民年金しかもらえないので、5000万円足りないという計算になる。

              この事実を隠しているのは、今でもこれだけ大騒ぎになっているのに、火に油を注ぐ結果になるからなのである。

              しかも、国会での安倍首相の答弁による所のマクロスライド方式をこのまま適用し続けていけば、共産党の小池氏が指摘したように現在41歳の人では年金受給年齢になった時に3600万円不足ということになるらしい。

              つまり、わたしのちょうど40歳くらいの後輩たちは35年ローンを組みマンションを購入している者が多いのだが、退職金などで支払いが終わったと思い安堵して65歳を迎えた時に、さらに3600万円以上の貯蓄が必要という悪夢が待っているわけである。

              つまり、100歳時代を迎えた今、現行の年金制度に頼るのは不可能であり、定年延長などでもっと働かざるを得ない状況に陥るということである。70や80になっても働かないと生きていけない国が我が国日本である。

               

              そして、もっと危惧してるのはニート、フリーターひいては子供達の憧れの職業YOUTUBER達である。

              引きこもりは現在100万人以上いると言われている。この人たちに共通しているのは、働かなくても食べていける経済状況を親が作っているということである。企業の部長以上のクラス層である。8050問題などと言われているが、この前息子を刺殺した元農水省事務次官のケースもこれに該当する。この親達が病気等で倒れれば、この庇護のもとにいる引きこもりの人たちは生活ができない状況に追い込まれる。川崎の小学生の集団に刃物で向かった犯人は、川崎市へ生活保護申請を却下されたことが直接的な大きな動機とも言われている。つまり、親の庇護のもとにいるからニートができるわけであり、それがなくなればもっと悲惨な状況が事件として生まれてくるのは必然である。フリーターも10年以上働いて収入を得て生活しなければ、国民年金は支給されない。

              今や世間がもてはやしているYOUTUBERも厚生年金はもらえないし、先日、動画配信で1億稼いだことを自慢して、その1億の包みを見せつけていた主がいたが、その動画主の年齢、30歳前半からしてみればそれくらい貯めておかなければ、冒頭の話のように65歳になつた時に悲惨な状況が待っているということである。雨後の筍のごとく、動画主が乱立し、内容的にもお粗末なコンテンツしか配信できない状況にいる人がほとんどである。差別化をはかることが困難な今、チャンネル登録数を伸ばしている者も少数いるが、そんな彼らでもあと30年続けられるのかといえばそれは不可能である。

               

              また、自慰やパンティを見せたり、売ったりする破廉恥行為をブログの有料サイトで流したり、他人の感情を害すような動画や悪口を垂れ流したりして収入を得る仕事に「生きがい」や「やりがい」はあるのかという本質的な問題に行き着くのである。わたしは、人生の意味とはお金を手に入れればいいというものではないと思う。そこに「生きがい」や「やりがい」があるのか。その仕事に命を懸けて取り組めているのかこそ人生の意味や価値はあると考える。自分の仕事で誰かが喜んでくれる、誰かの役に立っている、ひいては社会的に貢献しているというものがなければ、仕事など続けていくことは出来ない。しかし、そういう輩は一握りの変態的なファンがいることで貢献しているという屁理屈をこねるのだろう。そもそも常識的に物事を考える理性もないのであろう。

               

              私はあと数年で年金生活に入るわけだが、2000万円の貯蓄もないのが現実である。だが35年の教職人生、半年の高齢者支援のパソコン教室での仕事にはお金以上の「やりがい」を感じた。

              最近、「ねんきん定期便」をじっくり見ることが多いのだが、懸命に働き、年金保険料を支払い続けてきたからこそ65歳になれば国から月々20万円以上の年金をいただけるのである。その額を少ないとか多いとか言うつもりはさらさらない。

              金融庁の報告は現実を突きつけているのであり、それをなかつたものにしようとか、年金制度そのものに抜本的な方策を見出せない政府のあり様こそが問題があると言うことを履き違えてはいけない。

               

              私は年金問題以上にやりがいとか生きがいを考えることなく、とりあえずお金になればと言う安易な考えで過激または陳腐な動画しか発信できないYOUTUBERに憧れる若者が多くなってきたことこそ我が国の深刻な問題であると考える。

              そんな人間達が65歳になって全く年金が支給されなくともそれは自業自得であろうし、おそらく現行の年金制度は破綻しているであろう。

               

               


              天の光

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                葉室麟の「天の光」(徳間書店)を読み終えた。

                心に深い感動が押し寄せている。

                仏師 清三郎がたどり着いた境地。

                 

                闇の夜を生きる人々が味わうのは嫉妬、欲望、我執の苦悩ばかりだ。それを照らし出し、ひとを導く光こそが仏であるだろう。仏の像を彫るとはすなわち、光を見出すことにほかならない。(形を彫るのではないのだ。光を導くのだ。)

                仏像を彫る材木は、木片に過ぎない。仏性が目に見えるものであるはずもなかった。彫り上げた仏像から放たれる光こそが仏性なのだ。

                 

                妻をただ救いたいと言う一念で仏を彫り続けるその懸命な姿に心打ち震える。

                最後の場面。仏を彫るために使っていた鑿一つで、妻を奪回するために敵であるで鬼岩に向き合う清三郎。

                「何があろうと、わたしにとっておゆきは昔と変わらない観音様だ。仏師であるわたしが命懸けで観音様を守る気持ちは、未来永劫変わらない。」

                「わたしはお前を救うためにこの島に来たのだ。」

                 

                物語の幕切れも実によい。この本に出会ってよかったと素直に感じることができる圧倒的な読後感である。

                 

                「おゆきの幸せこそ、自分が精魂込めて彫り上げた仏であった。」

                 


                衝動買い「群像」7月号 西村賢太最新短編を読む

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                  滅多に買わない文芸誌を購入した。「群像」7月号(講談社)である。

                  その訳は、表紙の西村賢太 創作2編160枚と「瓦礫の死角」「病院裏に埋める」と言う見出しが目に飛び込んできたからである。

                  今や日本の文壇において死滅状態である「私小説」の雄である。

                  芥川賞を受賞した「苦役列車」から始まり、貪るようにその著作に読みふけっていた時期がある。

                  最近この2年くらいは読んでいなかった。

                  そういえば、私が愛してやまない山本周五郎の名作「五瓣の椿」を西村賢太も絶賛していたのを記憶している。

                   

                  さて、収録された2編であるが、お馴染み北町貫太ものである。

                  「蠕動で渡れ 汚泥の川へ」で描かれていた頃の、憧れの洋食屋に勤めたはものの最終的には店主に叩き出された頃の話である。

                  叩き出された貫太が戻ったのは、かつて暮らしていた母親克子の家。その母親との激しい相克については、様々な作品で取り上げられているが、この短編の中で初めて垣間見える、貫太が母親からの要請に応えて深夜の往来を共に歩くエピソードには今までに垣間見たこともない温かさが描かれている。

                   

                  タイトルの「瓦礫」とは実の父親が起こした性犯罪後引き起こした家庭の崩壊を指している。

                   

                  瓦解し、山積した礫の陰から、七年の歳月を経て現れ出ようとしている者があるのだ。

                  犯罪被害者が出所した加害者に脅えることがあつても、加害者家族がその当事者の影に恐れ慄くと云うのは、見ようによって何とも滑稽な話である。

                  すでに背負わされたものは、それは降ろしたくても降ろせぬのであれば、もう仕方ないが、これ以上、あの父親絡みで足を引っ張られる状況に陥るのは、断固御免を蒙りたい。

                  「まったく しまらねえ人生だよな・・・・」

                   

                  なるようになれと破天荒を気取りながらも、なるようにならない重荷に怖さを感じている貫太の姿がやけに胸に響く。

                   


                  元農林水産省事務次官の事件から思うこと 幸福とは何か?

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                    先日、25歳になる次男と酒を飲んだ。

                    5ヶ月に一度くらいの割合で飲んでいる。そういうことを後輩に話すと、「僕は20代の頃、親父と飲んだ経験ないなあ」とか「息子さんと何話すんですか?話すことないなあ。」などという答えが返ってくることが多い。

                    話す話題など他愛のないことだ。息子の彼女の話とか共通の趣味であるヨーロッパサッカーのことなど。

                    話の接ぎ穂を見つけるために苦労したことなどない。

                    私にとってはとても幸福なことだと思っている。

                     

                    なぜ、こんなとりとめもない事を記したのかと言うと、引きこもりの息子を殺害した元農林水産事務次官のニュースが話題になっているからだ。

                    最近では橋下徹などのようにこの父親の気持ちに共感する声も聞かれる。

                    それは置いといて、この人は自分の76年の人生を振り返って「幸せ」だと言えるのだろうかと思ったのである。

                    元同僚によれば、絵に描いたようなエリート人生を歩んできた人だと聞く。経済局長、農水審議官などの国際畑を歴任し、まさに仕事に関しては順風満帆だつたようだ。その一方では、悲惨な事態が家庭で進行していた。

                     

                    立ち止まる時があったはずである。

                     

                    実は、私も息子が小さかった頃、ワーカホリックな日々を送っていた。休みであっても授業の資料作りなどに追われ、家庭を顧みることは少なかった。文部省委託の研究発表校で研究推進を任されていたこともあるが、仕事は多忙を極めていたし事実仕事も楽しかった。幸いなことに、今は亡くなった義父が近くにいて、退職していたので二人の息子をよく電車に乗せて出かけてくれた。本当に感謝している。妻は今でも、その当時の頃の話を「仕事ばかりしていた。」とこぼす。でも、家にいる時にはスキンシップを心がけて遊んだりした。

                     

                    そんな時、体を壊した。好事魔多し。

                    高血圧で倒れた。3ヶ月の休職。この頃から、体調を崩すことが多くなつた。また、管理職試験にも数回落ちた。

                    そんな中で、学校生活の中で次男も荒れるようになってきた。

                    それが自分の人生の大きな分岐点であったように思う。さっき述べた「立ち止まる時」である。

                    管理職への道を諦め、家庭や体調を最優先する道である。それでも、ストレスで精神疾患に悩まされたり、苦しめられたりする人生であるが、決断したことは間違いではなかったと思う。

                    次男にも正面から向き合い説教もした。次第に荒れは収まり、高校入学後は良き部活の指導者にも出会い、立ち直った。

                    今では、スポーツジムのトレーナーとしてしっかり働いている。

                     

                    今の若者は理解が難しいなどと熊沢容疑者はこぼしているようだが、立ち止まらなければならない時に、きちんと息子と向き合わなかった代償が大きすぎたと言うことだ。何も家族か、仕事かと言う選択をしろ言ってるのではない。どちらも大切であることは分かっている。しかし、家族が窮地の時=立ち止まらなければならない時には真剣に考えなければ取り返しのつかないことが起きると言うことである。結局人生の晩年において、息子を殺すと言う最悪の結果を招くことになってしまった。それはある意味で、残酷な言い方ではあるが、子どもの育て方の問題でもある。地位やお金では教育はできない。捨て身で子供に向き合う覚悟が「その時」にあるかである。私はそう思う。

                    今の自分には地位も名誉も金もないが、少なくとも25歳の次男と楽しく語らいながら飲める事実こそ1番の「幸福」だと言い切れる。それで十分ではないか。


                    3MA アフリカ弦楽器トリオの演奏に酔う

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                      JUGEMテーマ:音楽

                      作家の村上龍もエッセイで、今やロックもポップスも瀕死の状態であり、かつてのような大きなムーブメントを起こすような創造的な音楽は誕生しないだろうと語っていたことがある。

                      私もそう思う。

                      流行り、廃りを無限ループのように繰り返しているかのような音楽界。

                      いつか聞いたような曲がまた何年後かにちょっと装いを新たにして生まれ変わる。そして、すぐに飽きられて消えていく。

                      だから、結局「クラシック音楽」にすがるしかない状態なのだ。

                      ところが、先ほど何気なくFM TOKYOのバラカンビートを聴いていて、久しぶりに背筋がぞくっとする感覚に襲われた。

                      流されていた曲は、「Anarouz」である。

                      アフリカの弦楽器トリオ 3MAの演奏である。

                      西アフリカのマリのコラ奏者、バラケ・シソコ。北アフリカのモロッコのウド奏者、ドリス・エル・マルミ。マダガスカルのバリハ奏者、ラジェリ。各々の国を代表する一流の演奏者である。楽器名を聞いても一体どんな楽器なのか分からないのであるが、その奏でる音は、まるで大地に滲み透る慈雨のごとく透明感に溢れたものである。

                      歌詞も日本語対訳がないので、意味は分からないのであるが、心を捉えて離さない不思議な力を持っている。

                      アフリカンミュージックを聴くのは自分自身初めての体験であるが、心を鷲掴みにされた感覚である。

                      とにかくその演奏力の高さに驚かされると共に、心のより深い部分に直接的に響いてくるかのような弦の響き。

                      心は酔わされている。


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